小松則幸
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小松 則幸(こまつ のりゆき、1979年4月21日 - )は、日本人プロボクサー。大阪府寝屋川市出身。
WBA世界ライトフライ級王者亀田興毅との対決を熱望している選手の1人であるが、小松本人は「戦えるなら、いつでも亀田と戦いたい。しかし、亀田との試合が実現することはないでしょう。だから、亀田については、出来れば何も話したくない」と語っている。
入場曲は、TOM★CATの「TOUGH BOY」
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[編集] 来歴
- 1997年9月9日、エディタウンゼントジム所属でプロデビュー。岩本和宏に4R引き分け。
- 2002年9月11日、OPBF東洋太平洋フライ級王座決定戦に挑戦。孫正五(韓国)に12R判定勝ちし王座獲得。フットワークとコンビネーションパンチのスピードは出色で、強打の韓国王者に快勝。ボクサー・タイプとしての新境地を拓いたかに見えた。しかしこの試合を最後に、足を止めて打ち合い、相打ちの右ショートパンチでKOを狙うスタイルに変化していく。
- 2003年2月16日、フィリピンフライ級チャンピオンでOPBF同級1位の指名挑戦者ロリー・ルナス(フィリピン)に2RTKO勝ち。同王座初防衛成功。この時点でWBCフライ級12位、後にPABA同級王座も獲得する強豪に、初回は圧倒されながらも2Rに右アッパーから右クロスを決めてダウンを奪い、追撃をかけてレフェリーストップを呼び込む。劇的な逆転KO勝利であった。小松のベストバウトと言える一戦。なお、ルナスはその後、石川県のカシミジム所属となり「ロリー松下」のリングネームで活動している。
- 2003年5月5日、パノムデット・オーユタナコーン(タイ)に5RTKO勝ちし同王座2度目の防衛成功。タイ国同級王者の肩書きを持ちながら、日本での勝ち星がない相手との実力差は大きく、初回早々から右でダウンを奪い、5Rにラッシュをかけてレフェリーストップとなった。試合後のインタビューで、国内の同階級の強豪との対戦を希望する旨を語り、これがきっかけとなってトラッシュ中沼との対戦が実現する。
- 2003年8月24日、トラッシュ中沼に12R判定勝ちし同王座3度目の防衛成功。しかし当日観戦の専門誌記者やファンの意見は「中沼の明確な優勢」というものが大多数を占め、露骨な地元判定であると業界内外で大いに物議を醸した。一部のファンからは審判の買収疑惑まで提起される事となった。この試合はCS局で生中継され、小松の試合が多くのボクシングファンの目に触れる初めての機会となったが、この試合での悪印象が、小松への評価に影を落としている面がある。なお、小松本人は試合後も悪びれた様子もなく勝利の喜びを語ったため、ファンの悪印象を助長した。しかし本人は中沼に苦戦はしたものの、勝敗についてはファンの印象とは違った手応えを感じていたらしい。
- 2004年2月15日、エドガー・ロドリゴに8R負傷判定で判定勝ちし同王座4度目の防衛。初回に鮮やかな左フックのカウンターを決めてダウンを奪うも、その後はやや苦戦した。
- 2004年6月26日、小嶋武幸に10R負傷判定で判定勝ちし同王座5度目の防衛。序盤から左右のフックを決めて優位に立つも、小嶋の右ストレートを浴びて動きが止まる場面も。この時点でWBCフライ級3位の東洋太平洋王者としては、物足りない試合内容であった。
- 2004年9月20日、トラッシュ中沼に12R判定負けし同王座を失う。結果は0-2で中沼選手の判定勝ちであったが、激しいポイントの奪い合いが繰り広げられる大変な接戦であった。なお、日本ボクシングコミッション(以下、JBC)関西事務局は、ジャッジした北村信行氏の採点(中沼選手の勝ち)を不適切として、同氏に10月4日から年内の出場停止を通達した。また、JBC東日本地区所属の福地勇治ジャッジは、若干の中沼優勢で推移した最終ラウンドに、本来ならばノックダウンまたはそれに準じる大差優勢となった時のみに用いる「10-8」の採点で中沼に2点のリードを与えた。もしこれが「10-9中沼」であったなら、判定結果は「0-1ドローで王者防衛成功」であったため、この採点は俗に言う「帳尻合わせ」ではないかと一部で論議を呼び、好試合に対する好ましい印象を台無しにするものとして、ファンの失望を買った。
- 2005年1月29日、WBC世界フライ級王座挑戦。世界王者ポンサックレック・グラティンデーンジム(タイ)に5RTKO負けし王座奪取ならず。初回から前足のポジション取りで劣勢に立ち、ポンサックレックの右アッパーを端緒とする的確なコンビネーションの前に力及ばず、5Rに2度のダウンを奪われたあと、果敢に立ったもののパンチによる負傷箇所からの出血多量でTKOを宣告される。初の世界挑戦は完敗に終わった。
- 2005年11月22日、トリプルタイトル戦(大阪府立体育館)でフェデリコ・カツバイと亀田興毅が返上した東洋太平洋フライ級王座決定戦を争う。相手の減点もあり、スプリットディシジョンでの判定勝ち、タイトル獲得。3回には小松がサウスポーとの対戦時に得意とする左フックのカウンターを決め、タフなカツバイをダウン寸前に追い込むなど好調だったが、中盤以降急激に失速。かろうじて逃げ切ったものの、今後に不安を抱かせる試合内容だった。
- 2006年6月27日、史上初の東洋太平洋、日本フライ級ダブルタイトルマッチ(後楽園ホール)。内藤大助(宮田ジム)に6RKO負けを喫する。初回から内藤の左フックで腰を落とし、劣勢のラウンドを重ねながら脅威的なタフネスを見せていたが、6回に内藤の右フックを浴びてダウン。立ち上がったが追撃を受けてTKOを宣せられた。世界戦以外では初のKO負け、そして完敗であった。
- 2006年12月10日、エディタウンゼントジムからグリーンツダジムへ移籍。
- 2007年2月12日、尼崎アルカイックホールにて、元OPBFフライ級チャンピオン、ワンミーチョーク・シンワンチャー(タイ)と再起戦を行い8RTKO勝ち。序盤からラフなワンミーチョークの右フックを受け苦戦、3Rにはこのパンチで軽いダウンも喫したが、4Rから逆襲。5Rにダウンを奪い返すと、8Rにボディブローで倒し、移籍初戦をKOで飾った。
- 2007年7月2日、後楽園ホールにて日本フライ級チャンピオンの吉田健司(笹崎)に挑戦。乱戦の末6R負傷判定負け、王座奪取ならず。
- 2007年8月25日、フィリピン・マニラのモール・オブ・エイジアにて、比国スーパーフライ級チャンピオンのロイ・ドリゲスと対戦。1回に偶然のバッティングで左目上から出血、試合続行不可能となり、ドクターストップによる1回負傷引分となる。
- 2008年1月5日、大阪府立体育館第二競技場にてタイ国ライトフライ級チャンピオンのスリヤ・クロンパジョンと対戦。初回に二度ダウンを喫し、懸命に反撃するも及ばず10R判定負け。スコアは0-2(94-97、92-97、95-95)。
- 2008年4月28日、大阪府立体育館第二競技場にてタイ国フライ級チャンピオンのユーシ・ウアウサンパンと対戦。2Rに右フックでユーシをぐらつかせるも、3Rには逆にダウン寸前に陥る。6Rユーシの右でダウンを喫し敗色濃厚だったが、終盤の懸命な攻勢により僅差ながら10R判定勝ちを収める。スコアは2-1(96-94、94-95、96-94)。
[編集] 戦績
- プロボクシング:33戦22勝10KO5敗6分
[編集] 獲得タイトル
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
前王者 |
第29代東洋太平洋フライ級王者 2002年9月11日 - 2004年9月20日 |
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前王者 |
第34代東洋太平洋フライ級王者 2005年11月22日 - 2006年6月27日 |
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