小崎弘道
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小崎弘道(こざき ひろみち、1856年5月17日(安政3年4月14日) - 1938年(昭和13年)2月26日)は、日本の牧師。霊南坂教会を創設し、同志社第2代総長、日本組合基督教会会長、日本基督教連盟会長などを務めた。神学者で牧師の小崎道雄は長男。
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[編集] 来歴
1856年5月17日、熊本藩士小崎次郎左衛門の5人兄弟の次男として肥後国託麻郡本山(現在の熊本市本山町)に生まれる。藩校時習館を経て、1871年熊本洋学校に入学。塾長補助や生徒取締を任せられ2円の収入を得たほか、小学校の算数教師も務めた。熊本洋学校の海老名弾正、浮田和民、横井時雄、金森通倫ら同期を含む35名が1976年1月29日花岡山に集合しその翌日誓約に署名した際(熊本バンド結成)、当時儒教の道を選択していた小崎は参加しなかったが、のちの彼らに対して行われた迫害事件(花岡山事件)を転機として、海老名弾正らの勧めもあり、同年4月3日リロイ・ランシング・ジェーンズから洗礼を受け、熊本バンドの一員となった。熊本洋学校閉鎖により1876年同志社に転入学、新島襄と出会う。在学中に彦根伝道に加わり、1879年6月同志社を卒業。その後新島襄とともに日向伝道を行った。
1879年10月上京し、京橋区新肴町に新肴町教会を設立、12月按手礼を受けた。牧師としての収入は熊本洋学校時代と同じ2円で生計は苦しかったが、一致神学校での教師活動や翻訳活動でそれを補った。1880年3月には植村正久、井深梶之助、田村直臣、平岩愃保らとともに東京キリスト教青年会 (YMCA) を創設し初代会長となり、10月にはキリスト教をはじめとした思想一般に加え社会問題も取り扱った青年会機関誌『六合雑誌』を創刊。同誌にて、初期社会主義思想を紹介した「近世社会党ノ原因ヲ論ズ」を発表した。1882年、新肴町教会と粟津高明の日本教会とが合併して東京第一基督教会となる。1883年には週刊新聞『基督教新聞』を刊行し、植村正久らとともに出版社「警醒社」を設立、同社から1886年6月に『政教新論』という本を刊行した。同書は、従来の宗教としての儒教に代って、新しい時代の日本におけるキリスト教の重要性を説いたものであった。1886年赤坂霊南坂に教会堂を建立し番町教会の牧師となる。
1890年1月の新島襄死去に伴い同年4月同志社英学校社長兼校長となり(当時35歳)、1897年4月までの7年間務めた。この間、1893年にはアメリカシカゴで行われた世界宗教大会に日本基督教代表として出席し、「日本におけるキリスト教の大勢」と題して演説を行った。この演説は日本文化・思想の優位性を強調したもので、外国人宣教師は伝道先の国の文化を理解するのは困難であるからその国の知識人と交わる程度にとどめるべき、日本を訪れる宣教師は日本思想界を凌駕するほどの一流の学者であるべきだといった内容であったため、宣教師から不評をかい、ハートフォード新聞に批判記事が載った。その後アメリカン・ボードの宣教師とも軋轢が生じたのが、同志社辞職の原因であったとされる。世界宗教大会出席後はイェール大学で8か月間神学研究を行うなどした。
同志社総長辞職後東京に戻り、京橋教会の牧師を務めてまもなく霊南坂教会に合併させ、同教会の牧師を務める。1898年からの2年間伝道誌『新世紀』を、1900年からの2年間『東京毎週新聞』を刊行。ハワイ伝道ののち、1903年東京伝道学校を開校し、1905年には北アメリカ太平洋沿岸で伝道を行った。1904年に勃発した日露戦争には、自らが主催した大日本宗教家大会において協力の立場を表明。日本基督教連盟、日本基督教会同盟、海外基督教伝道教会、日本福音同盟会、日曜学校協会、南洋伝道団などの会長(団長)を務め、1920年、世界日曜学校大会を日本で主催し日本代表として出席した。そのほか、世界宣教大会などにも日本代表として出席している。1931年には、霊南坂教会の名誉牧師に就任した。
1938年2月26日、81歳で死去。青山霊園、多磨霊園に遺骨が眠っている。
[編集] 翻訳命名
「青年」という言葉は、東京キリスト教青年会創設の際小崎が“Young Men's Christian Association”を「基督教青年会」と翻訳したときに生まれた。また、“Religion”を「宗教」と訳したのも小崎である。なおそれ以前は福澤諭吉が「宗門」「宗旨」と、中村正直が「法教」と訳していた。
[編集] 主な著作
- 『小崎全集』(全6巻、1938年-1939年)
[編集] 関連項目
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