寺田寅彦
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寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月28日 - 1935年(昭和10年)12月31日)は、日本の物理学者、随筆家、俳人であり吉村冬彦の筆名もある。高知県出身(出生地は東京都)。
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[編集] 略歴
- 1878年(明治11年)11月28日、東京市麹町区(現在の千代田区)に高知県士族(旧足軽)寺田利正・亀夫妻の長男として誕生。寅年寅の日であったことから、寅彦と命名される。
- 1881年(明治14年)、祖母、母、姉と共に郷里の高知に転居。
- 1893年(明治26年)、高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)に入学。
- 1896年(明治29年)、熊本の第五高等学校に入学。英語教師夏目漱石、物理学教師田丸卓郎と出会い、両者から大きな影響を受け、科学と文学を志す。
- 1899年(明治32年)、東京帝国大学理科大学に入学、田中館愛橘、長岡半太郎の教えを受ける。
- 1903年(明治36年)、東京帝国大理科大学実験物理学科卒業、大学院進学。
- 1904年(明治37年)、東京帝国大理科大学講師。
- 1908年(明治41年)、理学博士号取得。
- 1909年(明治42年)、東京帝国大理科大学助教授。
- 1916年(大正5年)、東京帝国大理科大学教授に就任(物理学)。
- 1917年(大正6年)、帝国学士院恩賜賞受賞。
- 1924年(大正13年)、理化学研究所研究員兼務。
- 1928年(昭和3年)、帝国学士院会員。
- 1935年(昭和10年)12月31日、転移性骨腫瘍により57歳にて病没。遺骨は高知市寺田家墓地に埋葬。
[編集] 業績
研究上の業績としては、地球物理学関連のもの(潮汐の副振動の観測など)がある一方で、1913年には「X線の結晶透過」についての発表(結晶解析分野としては非常に初期の研究の一つ)を行い、その業績により1917年に帝国学士院恩賜賞を受賞している。また、”金平糖の角の研究”や”ひび割れの研究”など、統計力学的な「形の物理学」分野での先駆的な研究も行っていて、これら身辺の物理現象の研究は「寺田物理学」の名を得ている。
寅彦はいわゆる「理系」でありながら文学など文系の事象に造詣が深く、科学と文学を調和させた随筆を多く残している。その中には大陸移動説を先取りするような作品もある。「天災は忘れた頃にやってくる」は寅彦の言葉といわれるが、著書中にその文言はない[1]。 今日では、寅彦は自らの随筆を通じて文系と理系の融合を試みているという観点からの再評価も高まっている。
漱石の元に集う弟子たちの中でも最古参に位置し、科学や西洋音楽など寅彦が得意とする分野では漱石が教えを請うこともあって、弟子ではなく対等の友人として扱われていたと思われるフシもあり、それは門弟との面会日だった木曜日以外にも夏目邸を訪問していたことなどから推察できる。そうしたこともあって、内田百間らの随筆で敬意を持って扱われている。
また『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルとも言われる。このことは漱石が寒月の扱いについて伺いをたてる手紙を書いていることや、帝大理学部の描写やそこで行われている実験が寅彦の案内で見学した体験に基づいていることからも裏付けられる。
[編集] 関連人物
後に友人の大河内正敏に請われて入所した理化学研究所や他の研究所などでは、寅彦を慕って「門下生」となった人物が多く、その中には中谷宇吉郎(物理学者、随筆家)や坪井忠二(地球物理学者、随筆家)などがいる。
なお作家安岡章太郎、別役実とは親戚で[2]、寺田、別役、安岡は土佐藩士の家柄である。
[編集] 主な著作
[編集] 文系と理系の融合を試みた随筆
- 『漫画と科学』
- 『科学と文学』
- 『西鶴と科学』
- 『珈琲哲学序説』
- 『神話と地球物理学』
[編集] その他の著作
[編集] 関連項目
- 高知県立文学館 - 館内に寺田寅彦記念館がある