寛永通宝
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寛永通宝(かんえいつうほう)は、日本の江戸時代を通じて広く流通した銭貨。寛永13年(1636年)に創鋳、幕末まで鋳造された。
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[編集] 概要
形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「寛永通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。材質は、銅製の他、鉄、精鉄、真鍮製のものがあった。貨幣価値は、裏面に波形が刻まれているものが4文、刻まれていないものが1文として通用した。当時96文を銭通しに通してまとめると100文として通用(短陌)し、通し100文と呼ばれていた。
[編集] 略史
寛永3年(1626年)に常陸水戸の富商・佐藤新助が、江戸幕府と水戸藩の許可を得て鋳造したのが始まりだが、この時はまだ、正式な官銭ではなかった。
寛永13年(1636年)6月、幕府が江戸橋場と近江坂本に銭座を設置。公鋳銭として寛永通宝の製造を開始。
幕藩体制の確立と共に全国に普及、創鋳から30年ほど経った寛文年間頃には、永楽通宝をはじめとする渡来銭をほぼ完全に駆逐し、貨幣の純国産化を実現した。寛文8年(1668年)、江戸亀戸で発行されたものは、京都・方広寺の大仏を鋳潰して鋳造したという噂が流布したこともあり、俗に「大仏銭」と呼ばれていた。また、裏に「文」の字があることから、「文銭」(ブンセン)とも呼ばれていた。(表の「寛」の字とあわせて「寛文」となり、寛文年間の鋳造であることを表している。)
寛永通宝のうち、万治2年(1659年)までに鋳造されたものを古寛永と呼ぶ。その後しばらく鋳造されない期間があり、寛文8年(1668年)以降に鋳造されたものを新寛永と呼ぶ。この古寛永と新寛永は、製法が異なり、銭文(貨幣に表された文字)の書体も顕かな違いがある。
銅または真鍮製の寛永通宝は、明治維新以後も貨幣としての効力が認められ続け、昭和28年(1953年)まで、銅貨4文銭は2厘、銅貨1文銭は1厘硬貨として法的に通用していた(通貨として実際的に使用されたのは明治中期頃までと推定される)。
主な鋳造所は幕府の江戸と近江坂本の銭座であった。しかし水戸藩、仙台藩、松本藩、吉田藩、高田藩、岡山藩、長州藩、岡藩等でも幕府の許可を得て銭座を設けて鋳造していた。
また、中国各地での大量の出土例や記録文献などから、清代の中国でも寛永通宝が流通していたことが判っている。清に先立つ明では、銅銭使用を禁じ、紙幣に切り替えていたが、清代になってから銭貨の使用が復活した。しかし銭貨の流通量が少なかったため、銭貨需要に応えるべく、日本から寛永通宝が輸出された。