安田能元
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安田能元(やすだ よしもと、天文12年(1543年)/弘治3年(1557年)? - 元和8年6月25日(1622年8月2日)?)は戦国時代~江戸時代の上杉家家臣。安田景元の子で、安田顕元の弟。安田広俊の養父。弥九郎。上総介。会津時代は安田順易(やすだ のりやす)と名乗った。
大江広元の末裔で、本姓は毛利である為に文書によっては毛利姓での記述も見られる。 本姓毛利の由来は以下の通り。
大江広元の四男である毛利季光が父の広元から与えられた相模毛利へ移り住んだことから毛利を名乗った。 季光は北条時頼の義父で権勢を振るったものの、越後にいた四男の毛利経光を残し彼の一族は宝治合戦で全滅している。 残された経光は長男の基親に越後を、庶子である四男の時親には安芸国吉田を継がせた。 この時親の子孫が後の中国地方の大名となる毛利元就である。
越後の毛利氏はその後居城の地名を名乗り「安田」「北条」等に分かれた。 越後毛利の北条は上杉謙信の後継者争いである御館の乱で上杉景勝に敵対し、滅んでいる。
上杉家が春日山城を居城としていた時代は安田城城主。御館の乱後に越後安田家当主であった兄の顕元が自害(乱の論功行賞の責任を取った)した為、家督を継ぐ。放生橋の戦いに於いて足を負傷し、障害が残る。主家の会津移封に従い、二本松城代や浅香城代などを務める。合戦での活躍もさることながら領内運営にも手腕を発揮し、大石綱元・岩井信能と合わせて『会津三奉行』と呼ばれる。また、武芸・行政以外にも風流人と言われる人々との親交も深く、特に上杉家へ身を寄せていた武術に秀でていながらにして風流を好んだ前田慶次と親しかった。
後継には同じ大江氏の一族である那波氏より養子を迎えている。
なお、上杉家中には毛利一族とは別の安田氏(揚北衆の安田長秀ら)がいる。 共に安田城主ではあるが、長秀は現在の阿賀野市、毛利一族である顕元・能元は現在の柏崎市の別の城であり、血縁関係は無い。