守礼門
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守礼門(しゅれいもん)は、首里城歓会門の外、首里を東西に貫く大通りである「綾門大道」(アイジョウウフミチ または アヤジョウウフミチ とも)の東側に位置する牌楼型の門(楼門)である。日本城郭でいう首里城の大手門に値する。柱は4本で二重の屋根を持ち、赤い本瓦を用いている。沖縄戦で焼失したが、1958年に再建され、1972年には県指定文化財となった。
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[編集] その呼称
「しゅれいもん・しゅれいのもん」は、そこに掲げられた扁額の「守禮之邦」からきている俗称で、本来は「上の綾門(ウィーヌアイジョウ)」という。これに対し綾門大道の西側(那覇港から来た際の、首里の街の入口)に位置した牌楼を「下の綾門(シムヌアイジョウ)」といい、「中山門」とも呼ばれていた(明治時代に老朽化のため撤去され現存していない)。なお、この対になっている二つの綾門がある道を、綾門大道と呼んでいる。
[編集] 創建と変遷
その創建年代の確定はできていないが、琉球王国第二尚氏王朝4代目の尚清王(在位1527~1555)のときに建てられていることはわかっている。またそのころは現在のような瓦葺きではなく板葺きであって、扁額は「待賢」であった。のちに「首里」の扁額が掲げられるようになり、その後6代尚永王(在位1573~1588)のときに「守禮之邦」の扁額がつくられた。それからは中国から冊封使がきているあいだは「守禮之邦」の扁額を掲げ、それ以外の期間は「首里」の扁額を掲げるということとなった。しかし9代尚質王(在位1648~1668)のときには「守禮之邦」の扁額を常掲するようになり、これが現在に至っている。
なお扁額となった「守禮之邦」という言葉は、尚永の冊封のさいの中国皇帝(このときは万暦帝)からの詔勅にあった文言で、「琉球は守礼の邦と称するに足りる」というくだりからきている。
[編集] その他
首里城が復元される前は、立派なものを想像して見物しに来た観光客などから、門が一つぽつんと建っているだけで予想したより見所がないことなどにより、「日本三大がっかり名所」の一つに数えられることがあった。かつて首里城跡に国立琉球大学があった頃には、「受験前に守礼門を見るとがっかりして落ちる」という都市伝説もあった。
また、D弐千円券の図柄として採用されているが、実質の流通数が少ないため、手にする機会の少ない紙幣であるといわれる。
[編集] アクセス
- 首里城を参照。