牌坊
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牌坊(はいぼう パイファン paifāng)は、中国でもっとも重視されている伝統的建築物の一つである。牌楼(はいろう ぱいろう pailou)または略して坊(ぼう ボウ fāng)と呼ばれることもある。海外では中華文化のシンボルの一つとされている。世界各地の中華街には牌坊がしるべとして建てられている。
一般的に牌坊と牌楼は同じ意味で使われるが、厳密にいえば違いがある。屋根や斗拱(ます組の意)のないものが牌坊と呼ばれ、あるものが牌楼と呼ばれる。
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[編集] 起源と発展
牌坊の起源は石器時代の氏族の部落の出入り口にあった門の形をした建築物といわれる。最初の頃の牌坊は簡単なもので、二本の柱の上に一本の木を渡したものであった。正門としての使われ方をした。
漢代以降、中国の都市は次第にまとまった形を形成するようになった。都市は壁と門で囲まれ、都市の中はさらにさいの目に区分された。この区分された区域を里坊という。それぞれの里坊にはさらに壁と門で囲まれた。ある歴史書物によると里坊の中で良いことが起きると、里坊の門の上にそれをたたえる張り紙をしたという。ここから門は新しい形を持つことになった。人々は張り紙をできるだけ永く保存しようと、もっと頑丈な材料を使って門を作った。たたえる言葉は門に彫られた。これが現在の牌坊の原型となった。
宋代になると、里坊の制度は次第になくなり、区分することがなくなっていった。里坊を取り囲んでいた壁は取り壊された。里坊の門は出入り口としての意味はなさなくなり、単に飾りとしての建築物に変わっていく。しかしこの建築物の形は次第に複雑に優美になっていき、最初は2本の柱に一本の梁だったものが、後世には6本の柱に5本の梁を持ち、屋根や斗拱みを取り付けたものにまで発展し、現在の牌坊になった。例:北京の正陽門の外にある南門大街の前門五牌楼
台湾は日本統治時代に多くの神社が建てられた。戦後、多くの神社は取り壊され、その上に忠烈の祠が建てられた。また神社の鳥居は楼坊となった。有名なものでは台南市延平郡王祠(元開山神社内)の中に白崇禧が題を立てた楼坊がある。楼坊には「忠肝義膽」(忠誠を尽くし義理を通す)の4文字が刻まれている。
[編集] 牌坊の分類
- 牌坊の設置:道路、寺院、陵墓、祠堂、架け橋、渡り場、園林など
- 牌坊の材料:石、木、レンガ、瑠璃など(単独で使われたり、石やレンガ、石や木など組み合わせて使われる)
- 牌坊の構造:1本の梁と2本の柱に1つの屋根、1本の梁と2本の柱に屋根と斗拱があわせて3つ、3本の梁と4本の柱に屋根と斗拱があわせて3つもしくは7つ、9つ、5本の梁と6本の柱に屋根と斗拱があわせて5つもしくは11個など
[編集] 有名な牌坊
[編集] 北京
- 保衛和平坊
- 前門五牌楼
- 西单牌楼
- 西四牌楼
- 東单牌楼
- 東四牌楼
- 棠樾牌坊群
[編集] 南京
- 南京朝天宮
[編集] 台北
- 中正紀念堂大牌楼
[編集] 福建省金門県
- 太武山軍人公墓牌楼
[編集] 関連項目
- 斗拱