宇都宮辻子
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宇都宮辻子(うつのみやずし)とは、鎌倉時代に鎌倉の若宮大路と小町大路の間を東西に結んでいた小道(辻子)のひとつ。1225年(嘉禄元年)に鎌倉幕府御所が大倉からこの地に移され、宇都宮辻子幕府と呼ばれたことで知られている。
[編集] 概要
宇都宮辻子は、鎌倉鶴岡八幡宮から由比ヶ浜(相模湾)に向かって南北に延びる若宮大路の二の鳥居のすぐ南側(現住所では鎌倉市小町二丁目付近)にあった小道(辻子)で、若宮大路とその東側の小町大路の間を東西に結んでいた。平安時代末期に京で左衛門尉を務め鎌倉幕府の有力御家人となった宇都宮朝綱ら、宇都宮氏の鎌倉の居館がこの界隈にあったことからこの名で呼ばれた。鎌倉幕府(政庁)は第3代執権北条泰時によってそれまでの大倉から宇都宮辻子に南面する北側の地に移転され、宇都宮辻子幕府と呼ばれた。現在は宇都宮辻子幕府跡に宇都宮稲荷神社が鎮座しその面影を残す。
[編集] 宇都宮辻子幕府
1180年(治承4年)、関東一円を平定した源頼朝は鎌倉に入って大倉に居館を建て政庁を整備、1192年(建久3年)に後白河法皇が崩御すると征夷大将軍となり鎌倉幕府を成立させた。以来30余年にわたって大倉に幕府政庁が置かれたが、1225年(嘉禄元年)、その前年に第3代執権となった北条泰時は源氏政権から合議制を旨とする執権政治への移行を目指し、大倉の幕府政庁を鶴岡八幡宮の南側、北条得宗家居宅の近隣地に移転した。この移転先の政庁敷地が宇都宮辻子に南面していたことから、この新幕府政庁は特に宇都宮辻子幕府と呼ばれる。
宇都宮辻子幕府が生まれた背景には、将軍家となった源氏内部と鎌倉幕府創立期の立役者たちの間での政権抗争が一因にあった。1219年(建保7年)に公暁に襲われて落命した第3代将軍源実朝の跡を継ぐ源氏血統の後継者は無く、代わりに皇族を京から迎えようとしたが後鳥羽上皇に拒絶され、結果的に源氏の流れを汲む九条頼経を迎えることとなったが、当時頼経はまだ2歳であったため将軍不在期間が生じることとなった。この間も政権を執ったのは幕府創始期の中心人物達であったが、京で承久の乱が起きた混乱期に第2代執権の北条義時が死去、幕府軍の総大将として上洛し六波羅探題北方となっていた北条泰時は急遽帰倉し第3代執権となった。泰時は混乱を収めるため連署を置いて合議制の方針を表明したが、翌年の1225年(嘉禄元年)夏、幕府の中核となっていた北条政子や大江広元が相次いで死去、この流れを断ち切り心機一転を図る目的を一因として、同年に宇都宮辻子への幕府政庁移転が行われた。こうして同年12月、九条頼経は宇都宮辻子幕府で元服を迎え、翌年1226年(嘉禄2年)に第4代将軍に就任した。
宇都宮辻子幕府は11年間続き、この間に泰時は御成敗式目の制定や鎌倉の都市整備を手がける。そして宇都宮辻子幕府は同じ泰時の手によって若宮大路幕府へと引き継がれる。一説に若宮大路幕府はこの宇都宮辻子幕府を増改築したものであったが、若宮大路に西面するつくりと成ったため名称が変わったと謂われる。