存覚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
存覺 | |
---|---|
正応3年6月4日 - 応安6年2月28日(旧暦) 1290年7月11日 - 1373年3月22日(新暦) [1] |
|
幼名 | 光日麿(光刀丸とも) |
名 | 〔東大寺受戒時〕 法名:興親 〔大谷〕 法名:存覺 |
諱 | 尊覺⇒光玄 |
尊称 | 存覚上人 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | (後の木辺派) |
寺院 | 常樂寺 |
師 | 覚如 |
弟子 | 了源 |
存覚(ぞんかく)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧。錦織寺四代。
存覚は初期浄土真宗における優れた教学者で、父覚如を助けて浄土真宗の教線拡大に尽力したが、本願寺留守職や東国における門徒への対応などをめぐり対立し、2度の義絶と和解が繰り返された。和解後も本願寺別当職を継承しなかった。
存覚は終生にわたり教化活動に力を注ぎ、仏光寺了源への多数の聖教書写を初め、関東や陸奥国・近江国・備後国などで多くの布教活動を行った。
[編集] 生涯
- 正応3年6月4日(1290年7月11日[1])、本願寺三世覺如の長男として、生まれる。幼名は、「光日麿」(「光刀丸」とも)。
- 永仁5年(1297年)前伯耆守日野親顕の猶子となる。
- 乾元2年・嘉元元年(1303年)、14歳で奈良に遊学し、東大寺で出家受戒し、「興親」と名乗る。興福寺の慶海・実伊・良寛に教えを受ける。
- 嘉元2年 1304年、比叡山延暦寺で受戒、尊勝院玄智に入門する。
- 嘉元3年(1305年)、日野俊光の猶子となり、名を「光玄」と改める。十楽院有職となる
- 延慶2年(1309年)、毘沙門谷証聞院にて修学。
- 延慶3年(1310年)、毘沙門谷証聞院より大谷の覚如のもとに帰り、父を補佐して門弟の教化に務めた。
- 応長元年(1311年)、越前・大町専修寺の大町如道(三門徒派開基)に「教行信証」を講述する。
- この年、親鸞五十回忌。
- 正和3年(1314年)、覚如、病身のため、大谷廟堂の留守職を移譲される。
- 正和5年(1316年)、室に「奈有」を迎える。
- 文保元年(1317年)、親鸞自筆の『観無量寿経集註(しっちゅう)』『阿弥陀経集註』を書写。
- 元応2年(1320年)、長男「光祖」(第2子、後の南禅寺首座)生まれる。
- 元亨元年(1321年)、覚如により「大谷廟堂」を寺院化され、「本願寺」と号する。寺院化に伴い、留守職は、住持職を含めた別当職となる。
- 元亨2年(1322年)、留守職の血脈継承と東国門徒に対する意見の相違により、覚如に義絶される。
- 元亨4年(1324年)、了源の求めにより『浄土真要鈔』、『諸神本懐集』、『持名鈔』を著わし、付与する。
- 同年、『破邪顕正鈔』、『女人往生聞書』を著わす。
- 正慶元年(1332年)、鎌倉大倉谷に移住する。
- 正慶2年/ 元弘3年(1333年)、鎌倉を出て、近江瓜生津の仏光寺に向う。
- 建武元年(1334年)、四男「綱嚴」生まれる。(後に慈空の養嗣となり、名を「慈観」と改め、錦織寺五代となる)
- 建武4年(1337年)、備後にて『顕名鈔』を著わす。
- 建武5年(1338年)、備後国府にて法華宗と対論、『決智鈔』、『法華問答』、『報恩記』、『至道抄』、『選択註解抄』を著わす。
- 暦応元年(1338年)、覚如に義絶を赦免され、別当職に復職。
- 康永元年(1342年)、覚如に再び義絶される。
- 康永2年(1343年)、『教行信証』に延書をする。
- 観応元年(1350年)、覚如に義絶を赦免する。
- 文和2年/正平8年(1353年)、数年間滞在していた六条大宮の坊舎を大谷の今小路(京都常樂臺)に移転し、以後そこに住す。
- 応安6年(1373年3月22日[1])、84歳(数え年)にて入滅。
[編集] 著書
- 自著
- 『六要抄』 - 『教行信証』(親鸞 著)を最初に註釈した書。
- 『諸神本懐集』
- 『持名鈔』
- 『存覚袖日記』
- 聞書
- 『存覺上人一期記』 - 存覚の綱嚴(慈観)による筆録集。本願寺の歴史を知る上での重要な史料。
[編集] 脚注欄
|
|