姨捨山
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姨捨山 | |
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標高 | 1,252 m |
位置 | 北緯36度28分07秒 東経138度06分24秒 |
所在地 | 長野県千曲市、東筑摩郡筑北村 |
山系 | 筑北三山 |
姨捨山(おばすてやま・うばすてやま)は、長野県千曲市と東筑摩郡筑北村にまたがる山。冠山とも更科山とも称される。正名は冠着山(かむりきやま)。古称は小初瀬山(おはつせやま)。
目次 |
[編集] 概要
名称の由来は、一説には奈良時代以前からこの山裾に初瀬(泊瀬)の皇子を奉斎する部の民「小初瀬部氏」が広く住していたことによるらしい(棄老伝説によるものは後述)。オハツセの転訛が北端で長谷(ハセ)の地名で残り南西部にオバステで定着したものとされている。奈良県桜井市初瀬町にある長谷寺に参詣することを「オハツセ詣で」と言われるのと一脈通じている。なお武烈天皇、仁徳天皇の孫とされる雄略天皇や聖徳太子の叔父に当たる崇峻天皇など複数人が初瀬(泊瀬)の皇子と称されており、何れが妥当なのかは不明である。
標高は1252mで、長野盆地南西に位置する。古くから「田毎(たごと)の月」として知られるほど月が美しくみられる場所として古来から知られる。 だが千枚田とも言われている田毎に月を映す多くの棚田が形成されるようになったのは江戸時代からと考えるのが相当である。 この地の月に関する初見は古今和歌集(905年)である。これより古い万葉集(759年)には眼下の千曲川に関する歌は見られるが、月や姨捨に関してもふれた歌は見られない。
なお、見下ろしている景色は全てが甲越両軍が12年に及び5度び繰り返した川中島の戦いの戦場であった。
[編集] 棄老伝説
姨をこの山に捨てた男性が、名月を見て後悔に耐えられず、翌日連れ帰ったという民話より名がついたともされるが、棄老伝説は古代インド(200年頃)の仏教経典「雑宝経」の説話に原点があるとされている。日本各地には様々な棄老の風習が民話や伝説の形で残っており、今昔物語集や大和物語にも棄老にまつわる話がでてくる。これが今も昔もある個人的な犯罪行為か、村落という狭い共同体における掟であったのかは歴史研究家によって見解が分かれている。しかし我が国古代法制度下では20歳以下の若年者、60歳以上の老齢者や障害者には税の軽減など保護がされていて、法制に棄老はない。ただ、それぞれの物語で親を棄てなければならなかった人間に同情的な描き方がされていることから、貧しい農村では「致し方ないこと」として容認されていた地域があったのかもしれない。また柳田邦男の遠野物語にはダンダラ野へ棄老するという風習が紹介されている。そして井上靖は浄土を求めた歴代住職に倣って船倉に僧を閉じ込めて熊野から沖に流した室町時代の逸話(補陀落渡海)に注目して作品とした。
史実には続日本紀(768年)に、朝廷から褒美を得た全国9人の内信濃国は4人の名が上げられていて、その内の更級郡の建部大垣が親孝行を理由とされている。この噂話に棄老を戒める仏教の説話が物知りによって付け加えられて姨捨伝説が定着したものと考えられる。ちなみに他の3人は伊那郡の未亡人他田部舎人千世売が貞節を理由として、また水内郡の友情に篤い刑部智麻呂と、同じ水内郡の他人の税を肩代わりした倉橋部広人とが各々の善行を賞されている。
なお建部氏は日本武尊を奉斎する部の民で、各地に配置された職業的軍事集団でもあったとされる。大垣の住地を麓の千曲市八幡(旧更級郡八幡村武水別神社周辺)とする説と犀川流域の信州新町竹房(旧更級郡竹房村武富佐神社周辺)であるとする二説がある。
姨捨伝説については深沢七郎が楢山節考(1956年)にて著述している。大和物語(950年姨捨の初見であるが大垣の受賞から180年余も後のことである)や更級日記(1059年頃)、今昔物語集(1150年頃)、更科紀行(1688年)にもその名があるほか、世阿弥の謡曲(1363年)にも取り上げられている。 このように往古から全国に知られた山であったが、更級郡に位置するという記述があるなど、特定された山ではなく、長野県北部にある山々の総称という見解もある。
正名の冠着山についても伝説がある。天照大神が隠れた天岩戸を手力男命が取り除き、九州の高天原から信州の戸隠に運ぶ途中、この地で一休みして冠を着け直した事からだとされている。