太田垣士郎
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太田垣 士郎(おおたがき しろう、1894年2月1日 - 1964年3月16日)は、昭和の実業家。黒部ダム建設で有名。
[編集] 経歴
兵庫県生まれ。京都大学経済学部卒業。日本信託銀行入行後、阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス)に移り、1946年社長。
1951年、電力界の再編成が行われ、関西電力が誕生すると同時に初代関西電力社長に就任。同時に阪急時代の後輩である、芦原義重が常務に就任している。太田垣は、戦後の電力不足事情をいち早く見抜き、大規模な水力発電所の建設に踏み切った。岐阜県の丸山水力発電所である。当時としては最大規模であった。関西電力がスタートした当時の資本金は17億円だったが、スタートしたばかりの時に、資本金の10倍もの資金を投じて大水力発電所の建設に着手したのである。1956年、ついで手がけたのが世紀の難工事といわれた、黒部川第四発電所(いわゆるクロヨン)である。関西電力は電力業界で、経営内容において業界一を誇ったが、その基盤を確立させたのが「クロヨン」だった。ここでも、後輩の芦原義重が太田垣を技術の最高責任者として補佐していた。難工事の経緯は石原裕次郎主演の黒部の太陽で有名である。関西電力はクロヨンの成功をはじめとして、新しいエネルギーである原子力に着目、日本で初めて原子力発電所(福井県美浜)に着手するなど、つねに先端技術を経営に生かした。1959年、太田垣は、関西電力社長のポストを芦原に譲り、また1966年には、関経連会長のポストも太田垣から阿部孝次郎(元東洋紡績会長)を経て芦原に引き継がれている。
関西経営者協会会長、関西経済連合会会長、電気事業連合会会長、産業計画会議(松永安左エ門主催)委員などを歴任。