大韓航空機YS-11ハイジャック事件
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大韓航空機YS-11ハイジャック事件(だいかんこうくうき-じけん、韓国語:칼기납북사건/칼機拉北事件)とは1969年12月10日に大韓航空(KAL、칼)の旅客機が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の諜報員によってハイジャックされた事件である。
この事件は、1958年の滄浪号ハイジャック事件に次ぐ大韓民国史上二番目の政治的な航空事件であり、翌70年のよど号ハイジャック事件に対する韓国当局の対応に微妙な影響を与えた。また、事件後に一部乗客が北朝鮮から帰郷を果たせなかったことから、北朝鮮による拉致事件であるといえる。なお、この事件により、製造元の日本航空機製造が大韓航空にリースしていた日本の国産旅客機YS-11が北朝鮮に強奪された。
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[編集] 事件の概要
1969年12月10日、韓国国内線として運航されていた江陵発ソウル行きの大韓航空機(日本航空機製造YS-11:登録番号HL5208、製造番号2043)は、ほぼ満席の乗客47人と乗組員4人を乗せて午後12時25分(以下、現地時間だが日本時間も同じ)に離陸した。しかし、大関嶺上空でハイジャックされ、午後1時18分に北朝鮮の元山付近の(선덕)飛行場に着陸した。北朝鮮当局は事件の翌日、操縦士2人の記者会見を通して「両操縦士がすすんで北朝鮮に脱出した」と発表した。しかし実際には、北朝鮮諜報部門による拉致工作であったといわれている。
事件後、北朝鮮はこの事件で人質となった乗員・乗客を政治的交渉のカードとして扱おうとした。事件後の同年12月22日、国連軍の要請により板門店で「軍事停戦委員会秘書長会議」が開かれ、国連軍側は乗客・乗務員及びに機体の早速な送還を要求した。しかし、北朝鮮側は国連軍の介入する問題ではないと主張して人質外交を展開する予兆を現わし、「亡命」したはずの操縦士以外の乗員乗客をただちに送還する姿勢を見せなかった。韓国側も、赤十字社の仲裁による交渉に乗り出そうとしたが、北朝鮮側はそれを黙殺し、同年12月24日には、むしろ「操縦士歓迎市民大会」を開いて政治宣伝を行なった。
だが、ハイジャック事件の長期化に対する国際世論が悪化すると、事件から55日(約2ヵ月)後の1970年2月5日に、北朝鮮は民間団体による送還交渉団体の結成が提議をしている途中で、民間人乗客の送還を約束した。しかしその後、南北当局による事件処理をめぐり一触即発の危機的状況になると、北朝鮮は送還予定日当日に約束を破った。事件から66日目の1970年2月14日になって、北朝鮮は搭乗者のうち乗客39人(男性32人、女性7人)だけを板門店を通して送還し、残り12名は抑留した。犯人を除く操縦士と乗客の一部の計11名は帰還せず、機体は現在に至るまで返還されていない。そのため彼ら11名は韓国政府から北朝鮮による拉致被害者として認定されている。
[編集] 事件の真相
北朝鮮側は操縦士による「亡命」を主張しているが、解放された乗客の証言や韓国当局の発表によれば、乗客として一番前の席に座っていた北朝鮮スパイの趙昶煕(当時42歳)が離陸後機長室に侵入し、機長にピストルを突きつけ北朝鮮に向かうように脅迫したというものである。目的等は不明であるが北朝鮮による拉致工作だったと思われる。
[編集] 事件のその後
翌年発生したよど号事件で韓国当局がソウルから平壌への飛行を強く拒絶したのは、この事件のように犯行グループばかりか機体及び乗員・乗客が拉致されると危惧したためであるが、当時の日本の世論にはこの事件が認知されていなかったため、なかなかよど号を離陸させない韓国当局に対して反発がおきた。また2001年には南北離散家族の再会で、ハイジャック機に搭乗していた客室乗務員の女性と母親が32年ぶりに再会したが、北側が「自ら越北してきたもの」と主張しているため、事件の真相など微妙な話題については会話出来なかったという。
[編集] YS-11の機体
ハイジャックされたYS-11はリース機であり、航空機登録上は大韓航空が使用できるように韓国籍にされていたが、所有権はメーカーである日本航空機製造が持っていた。機体が北朝鮮に没収された為、日航製に損失が生じたが、大韓航空は被害者であり請求することもできず、また北朝鮮政府からは損失補償される見込みもないため、代金の取立て不能とみなされ貿易保険によって所有者の日本航空機製造に対して損失補填されたという。なお、その後のYS-11の行方については事件以後まったく不明である。
[編集] 参考文献
- デビッド・ゲロー著、清水保俊翻訳、 「航空テロ」 イカロス出版 1997年