大蔵貢
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大蔵 貢(おおくら みつぐ、1899年11月22日 - 1978年9月15日)は活動写真の弁士、新東宝社長、大蔵映画社長。歌手近江俊郎の実兄。
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[編集] 活動映画弁士として
13歳で活動写真の弁士となり、好色なトークが女性に受け頭角を現す。その後、映画界が無声映画からトーキーへと移行するのを見越して収入を蓄財し、映画館の買収並びに経営に乗り出す。弁士の多くが漫談等に転向したのに対し、大蔵は実業家への道を選んだ。無声映画は弁士次第でヒットすると言われ、スター俳優より弁士の稼ぎは凄かった。
[編集] 映画館興行
弁士で稼いだ金で目黒の目黒キネマを買収したことを皮切りに下番線の三流映画館を次々に買収して財を成す。毎朝、チェーン館の支配人たちが前日の売上を麻袋に入れ、大蔵邸に集合するとソロバン片手に夫人がピーナッツ袋一つの売上まで厳しくチェックしたという。麻布の松竹の下番線館を買収したのを機に、大谷竹次郎の知遇を得る。こうして東都随一の映画興行師となった1936年、経営難に喘ぐ日活が常務に迎える。大阪の森田佐吉と共に、東宝・松竹の両社から狙われた日活の自主再建のため中立的な存在として経営に当たったものだが、実は既述の通り大谷と通じていたため利益相反行為で執行停止処分をうけ、辞任を余儀なくされた。(なお、後任の堀久作は小林一三と通じていた。)
[編集] 興行の特徴
その後も、映画館を複数所有し、大手映画会社すべての有力株主となる。1955年、新東宝の株主総会での発言がキッカケとなり、同社社長の田辺宗英から後任社長に迎えられる。大蔵は外部から有名監督を招く同社の文芸大作路線を改め、低予算の猟奇怪談お色気といったエロ・グロ路線に変更。一方で話題性を持つ作品づくりを目指すという名目で、当時最大のタブーだった天皇を主役とする映画にも挑戦。嵐寛寿郎に明治天皇を演じさせた渡辺邦男監督『明治天皇と日露大戦争』は大蔵の思惑通り日本映画史上最大のスキャンダルともてはやされて大ヒットを記録する。
[編集] 人物
徹底的なワンマン体制を敷いた経営者と誹りを受けるが、その実体は大蔵自身が企画第一主義を標榜した通り、監督やスターの知名度ではなく企画の面白さで集客を狙うという、映画作りの最も基本的なポイントを押さえたものであった。また『憲兵とバラバラ死美人』や『花嫁吸血魔』など扇情的なタイトルも、若い世代の観客を呼び込むのに大いに役に立った。新東宝創建当時の監督や俳優たちには去られたが、中川信夫などのベテラン監督に活躍の場を与え、石井輝男や小森白などの監督を育ててもいる。
しかし一方では女優を妾にしたり、近江俊郎に監督をさせる身内贔屓をしたことや監督会でポンと祝儀をはずみ「**踊れ」と芸者扱いした。また前田通子、高倉みゆき、池内淳子ら新東宝専属の女優達にひどい仕打ちをしたことでも知られる。
1960年、高倉みゆきとの関係について「女優を妾にしたのではなく、妾を女優にしたのだ」と発言し、ワンマンぶりを誇示した。ただし、これについては本当に妾だったわけではなく、あくまで大蔵の片思いであり、今で言う「ミツグ君」《まさに名前通り》であったという説もある。
1961年、新東宝は倒産。倒産前に社長を解任されていた大蔵は、大蔵映画株式会社を設立。怪談映画等を製作するが、後にピンク映画専門の会社になる。
[編集] その他
東京都台東区浅草の浅草寺わきにある弁士塚は、大蔵が弁士時代の盟友たちを顕彰するために、日本映画大手5社に呼びかけて1958年に建立したものである。