大東旭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[[画像:|200px]] |
|
基本情報 | |
---|---|
本名 | 大東 旭(おおひがし あきら) 慎 鏞旭(シン・ヨンウク) |
通称 | |
階級 | スーパーウェルター級 |
国籍 | 日本 大韓民国 |
誕生日 | 1970年4月10日(38歳) |
出身地 | 日本大阪府 |
命日 | |
死地 | |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | |
勝ち | |
KO勝ち | |
敗け | |
引き分け | |
無効試合 |
大東 旭(おおひがし あきら、1970年4月10日 - )は、大阪府出身の元プロボクサーで、現K-1ファイター。在日韓国人で韓国名は慎 鏞旭(シン・ヨンウク)。身長173cm。チーム・クラウド所属。得意技はフック。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] ボクサー時代
母子家庭出身。高校生でプロボクサーとなる。日本スーパーウェルター級王座を5度目の挑戦で掴み、初防衛戦で防衛に失敗するが、その後再奪取。10度の防衛に成功する。WBC世界スーパーウェルター級5位、WBA世界スーパーウェルター級8位にもランクされた。
2001年、ハビエル・カスティリェホの持つWBC世界スーパーウェルター級王座への挑戦が決まったが、オスカー・デ・ラ・ホーヤに挑戦権を奪われ、王座挑戦は立ち消えとなってしまう。
2003年12月、引退試合を行い、ボクシング界から引退。
[編集] K-1時代
ボクシングに自分の全てを捧げていたため、引退後生きがいを失ってしまう(「燃え尽き症候群」)。同時期に最愛の母が他界したこともあって、しばらくの間酒浸りの自堕落な生活を送る。
しかし、秋山成勲に打撃の指導を行ったことがきっかけとなり、2005年3月からキックの練習を開始し、兼ねてから興味を持っていたK-1に転向することを決意。9月2日、K-1転向が発表され、執念の減量を敢行。酒太りした83kgの体から、およそ1ヶ月でK-1 MAX規定体重である70kgにまで落とした。
2005年10月12日、K-1 WORLD MAXでアルバート・クラウスと対戦。試合では、ボクシングシューズを履いて試合に臨み(K-1公式ルールではシューズ着用は任意だが、着用したら蹴り技の使用が禁止される)、序盤は持ち前のパンチで相手を追い込む場面も見られたが、ローキックを何発も当てられKO負けとなった。
2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!で魔裟斗と対戦。急なオファーだったせいもあってか(計量までに契約体重に落とせず70kg超過のウェートオーバーだった)、いいところが出ずにローキックでKO負けを喫した。
2006年2月4日、K-1 WORLD MAX ~日本代表決定トーナメント~に出場し、総合格闘家の上山龍紀と対戦するも、上山のトリッキーな戦法に翻弄され、判定負けを喫する。
K-1デビュー後程なくして、ボクシングの権威が他の格闘技に脅かされていると危機感を持った西日本ボクシング協会は「K-1や総合格闘技等に出場するボクサーは、引退後のセコンド、トレーナーライセンス、ジム設立の許可を一切剥奪する」との宣言を発表し、ボクシング界から半ば追放の身となってしまう。
[編集] 戦績
[編集] プロボクシング
プロボクシング 戦績 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
50 試合 | (T)KO | 判定 | その他 | 引き分け | 無効試合 | |
39 勝 | 26 | 3 | 0 | |||
8 敗 |
[編集] キックボクシング
キックボクシング 戦績 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
3 試合 | (T)KO | 判定 | その他 | 引き分け | 無効試合 | |
0 勝 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
3 敗 | 2 | 1 | 0 |
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | イベント名 | 開催年月日 |
× | 上山龍紀 | 3R終了 判定0-3 | K-1 WORLD MAX 2006 ~日本代表決定トーナメント~ 【1回戦】 |
2006年2月4日 |
× | 魔裟斗 | 2R 1:58 TKO(右ローキック) | K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!! | 2005年12月31日 |
× | アルバート・クラウス | 2R 1:31 KO(右ローキック) | K-1 WORLD MAX 2005 ~世界王者対抗戦~ | 2005年10月12日 |