大原騒動
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大原騒動(おおはらそうどう)とは、江戸時代、飛騨国で発生した、大規模な一揆である。1771年(明和8年)から1788年(天明8年)までの18年にわたる。
正確には、明和騒動、安永騒動、天明騒動の三つに分けられるが、その時の飛騨郡代の名をとり、大原騒動と総称する。
[編集] 明和騒動
1771年(明和8年)、第12代飛騨代官(後の飛騨郡代)大原彦四郎紹正は、幕府勘定奉行の命により御用木元伐休山命令を山方衆出す。これは山方衆には死活問題であった。また、農民も新たな税の取り方にに不満を募らせていた。
そのような中、阿多野郷(現高山市高根町)と小坂郷(現下呂市小坂町)は、大古井村伝十郎ら代表を江戸に送り元伐を続けるように訴えた。
その結果を聞こうとした数百人の人々飛騨国分寺に集まり、伝十郎は江戸での結果を報告すると、人々の怒り、代官に協力した町人宅や土蔵の打ち壊わしをする。
大原紹正は直ちに鎮圧を行い、54名を投獄し、伝十郎は死罪となった。
[編集] 安永騒動
大原紹正は新たな検地を行なうことを決める。このさい、元禄に検地した古くからの田は調べず、新しく作った田だけ検地するということであったが、実際にはその約束を破り、古い田畑まですべて厳しく検地し年貢を増加させた。
これに怒った農民は郡代に請願書を出したが拒否される。そこで江戸の老中や勘定奉行などへの直訴に代表8名を送るが、3人は牢死、5人が死罪となってしまう。これに怒った農民は1773年(安永2年)9月~11月にかけて、上宝村本郷(現高山市上宝町)と一宮村に(現高山市一之宮町)で集会を開く。一揆は白川郷(現大野郡白川村)を除く飛騨全域に広がる。
大原紹正と幕府は隣国五藩(苗木藩・大垣藩・八幡藩・岩村藩・富山藩)に命じ、約2,000人の出兵をもって一揆を鎮圧した。鎮庄時に農民側に49人の死者が出、300人以上が捕らえられた。
この結果、飛騨一宮水無神社神主4人が磔。本郷村善九郎ら7人が獄門、さらに数名が打ち首、入獄死12人、流島17人、追放罰金1,000人以上と多くの農民が罰せられた。
[編集] 天明騒動
第13代飛騨郡代に、大原紹正の子である大原亀五郎正純が就く。大原正純は、私利私欲に走り、過納金(米一俵につき30~50文を過納し、納め終わると、百姓に返す金)を返さず、また村々から618両を借り、さらに幕府が天明の大飢饉対策としての農民に対する年貢の免除分を取り上げ、自分のものとしてしまった。
この私利私欲に対しては農民のみならず、役人や名主たちの不信をつのらせいった。1787年(天明7年)頃から、解顧された役人や失職した名主たちは、度々江戸に代表を送り、老中に密訴状の投入を繰り返えした。
1788年(天明8年)、飛騨に来た巡見史に対し訴状を出し、さらに江戸で老中松平定信に駕籠訴を行なった。これを重視した幕府は、大原正純を江戸に呼び出し、検見役を高山に派遣するなどして実状の調査にあたった。
この結果、大原正純は八丈島に流罪となる。大原正純に加担していた役人も処罰され、死罪2人、流罪1人、追放8人の判決が下った。また、農民側も駕籠訴を行なった者が死罪となった。