大原美術館
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情報 | ||||
正式名称 | ||||
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前身 | ||||
専門分野 | 西洋美術 エジプト・中近東美術 中国美術 |
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管理運営 | 財団法人大原美術館 | |||
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開館 | 1930年 | |||
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所在地 | 〒710-8575 岡山県倉敷市中央1-1-15 |
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大原美術館(おおはらびじゅつかん)は、岡山県倉敷市にある私立美術館で、財団法人大原美術館が運営する。美観地区の一角をなす。
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[編集] 沿革
[編集] 創設
大原美術館は、倉敷の実業家大原孫三郎(1880年–1943年)が、自身がパトロンとして援助していた洋画家児島虎次郎(1881年–1929年)に託して収集した西洋美術、エジプト・中近東美術、中国美術などを展示するため、1930年に開館した。西洋美術、近代美術を展示する美術館としては日本最初のものである。
第二次大戦後、日本にも西洋近代美術を主体とした美術館が数多く誕生したが、日本に美術館というもの自体が数えるほどしか存在しなかった昭和初期、一地方都市にすぎなかった倉敷にこのような美術館が開館したのは画期的なことであった。ニューヨーク近代美術館の開館が1929年であったことを考えれば、創設者大原孫三郎の先見性は特筆すべきであろう。しかし、開館当初は一日の来館者ゼロという日もあったほど注目度は低かった。
大原孫三郎は1880年、親の代から紡績業を営む、倉敷の名家に生まれた。日本の児童福祉の先駆者であり、岡山孤児院の創設者である石井十次との出会いが大原の人生を変えたという。プロテスタント信者であった石井の影響で自らもプロテスタントに改宗した大原は、事業で得た富を社会へ還元することの重要性に目覚め、大原社会問題研究所、労働科学研究所、倉敷中央病院などを次々と設立した。大原にとっては美術館の創設も社会貢献の一環という認識だったようだ。
[編集] コレクションの形成
大原は、自分と1歳違いの洋画家・児島虎次郎にことのほか目をかけ、パトロンとして生涯援助していた。児島は1908年から足掛け5年間、大原の援助でヨーロッパへ留学していた。彼はその後もさらに1919年5月–1921年1月と1922年5月–1923年3月の2回に亙って、大原の援助で渡欧している。その主たる目的は画業の研鑚であったが、児島は、ヨーロッパへ行く機会のない、多くの日本の画家たちのために、西洋名画の実物を日本へもたらすことの必要性を大原に説いた。大原は児島の考えに賛同し、何を購入するかについては児島に一任した。こうして児島はヨーロッパで多くの西洋絵画を購入したのである。
モネの『睡蓮』は晩年の画家本人から児島が直接購入したものであり、マティスの『画家の娘―マティス嬢の肖像』も画家本人が気に入って長らく手元に置いていた作品を無理に譲ってもらったものだという。大原美術館の代名詞のようになっているエル・グレコ『受胎告知』は、1922年、3回目の渡欧中だった児島が、パリの画廊で売りに出ているものを偶然見出したもの。非常に高価ではあったが、こんな機会は二度とないと思った児島は、大原に写真を送り、強く購入を勧めたという。現在では、これが日本に、倉敷にあることは奇蹟だといわれている。その他、トゥールーズ=ロートレック『マルトX夫人の肖像―ボルドー』、ゴーギャン『かぐわしき大地』などの名品は児島の収集品である。これらの西洋美術の他に、エジプト美術、イスラム陶器、中国美術なども児島は収集した。これらの収集品は、美術館開館以前にも何度か公開され、大評判を得ていた。
1929年、児島が他界し、これを大いに悲しんだ大原は、児島の功績を記念する意味をもって、その翌年に大原美術館を開館した。 しかし、大原美術館には、児島虎次郎以外のルートから入手した作品もある。 ルノワール『泉による女』は、大原孫三郎が援助していた画家のひとりである満谷国四郎が入手したものだ。ピカソ『鳥籠』、ドラン『イタリアの女』、スーティン『鴨』などは画商・福島繁太郎(1895年–1960年)のコレクションに入っていたものを第二次大戦後、大原美術館が入手したものである。また、大原孫三郎の後を嗣いだ大原總一郎(1909年–1968年)も文化人として知られ、フォーヴィスム以降の現代絵画、近代日本洋画など、新たな収集品を付け加えた。
なお、第二次世界大戦の末期、ゼロ戦などを製造していた三菱重工水島製作所(現在の三菱自動車)が何度も爆撃されたが、倉敷市街はまったく爆撃されなかった。これは、米軍関係者に大原美術館のコレクションを知っていた者がいたからといわれることもあるが、史料的な裏づけはない。実際には、倉敷への爆撃に向けて目標情報票も作成されていた。
[編集] 盗難
1970年に本館に展示されていたルオーなどの絵画5点が盗難されるという事件が発生した。
これらは犯人グループが1972年に逮捕され、無事美術館に戻されたが、事件発生後、本館は一階側面にあった窓が全て塞がれ、警備体制が強化されることとなった。
[編集] 展示館
ギリシア様式の本館のほかに、1961年に分館、同年に河井寛次郎、バーナード・リーチ、濱田庄司、富本憲吉の作品を展示する陶器館が開館。1963年には棟方志功および芹沢銈介の作品を展示する板画館と染色館が開館した。なお、現在は、陶器、板画、染色の展示室を「工芸館」と総称している。1970年には東洋館が開館し、1972年には館から離れた倉敷アイビースクエアに児島虎次郎記念館が開館した。
[編集] 主な収蔵品
- エル・グレコ『受胎告知』(1599年–1603年頃)
- シャヴァンヌ『幻想』(1866年)
- モロー『雅歌』(1893年)
- モネ『睡蓮』(1906年頃)
- ルノワール『泉による女』(1914年)
- ゴーギャン『かぐわしき大地(テ・ナヴェ・ナヴェ・フェヌア)』(1892年)
- トゥールーズ=ロートレック『マルトX夫人の像』(1900年)
- ボナール『欄干の猫』(1909年)
- マティス『画家の娘』(1918年)
- ルオー『道化師』(1926–1929年)
- ユトリロ『パリ郊外』(1910年)
- モディリアーニ『ジャンヌ・エビュテルヌの肖像』(1918年)
- キリコ『ヘクトールとアンドロマケーの別れ』(1918年)
- ポロック『カットアウト』(1949年)
- ロダン『歩く人』(1877年)
- エドガー・ドガ『赤い衣裳をつけた三人の踊り子』(1896年)
- 関根正二『信仰の悲しみ』(1918年)(重文)
- 小出楢重『Nの家族』(1919年)(重文)
- 中村彝『頭蓋骨を持てる自画像』(1923年)
- 佐伯祐三『広告 “ヴェルダン”』(1927年)
- 藤島武二『耕到天(たがやしててんにいたる)』(1938年)
- 梅原龍三郎『紫禁城』(1940年)
- 安井曾太郎『画室にて』(1951年)
- 菅井汲『ナショナル・ルート』(1965年)
- 横尾忠則『ロンドンの4日間』(1982年)
- 「木彫彩色女神坐像」(エジプト・プトレマイオス朝)
- 「一光三尊仏像」(中国・北魏)(重文)