大井信達
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大井 信達(おおい のぶさと)は、戦国時代の武将。武田信玄の外祖父にあたる。
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 不明 | |||
諡号 | 宗芸 | |||
氏族 | 大井氏 | |||
父母 | 父:大井信包 | |||
子 | 大井の方(武田信虎室)、大井信業 大井信常、武藤信堯、武藤常昭 |
大井氏は甲斐源氏で、武田信武の子・大井信明を祖とし、甲斐国西部の西郡を領する国人。上野城を支配した。
娘の瑞雲院殿(大井の方)は定恵院(今川義元室)、晴信(信玄)、信繁、信廉ら兄弟の生母となる。
[編集] 略歴
甲斐では守護武田氏において武田信縄と武田信昌・油川信恵の内訌と連動して国人同士の対立が発生しており、『王代記』によれば延徳2年(1490年)には大井氏は甲斐南部の河内地方を治める穴山氏と対立し穴山・大井合戦が起こっている。穴山氏などの有力国人は駿河国の今川氏と結んで勢力を維持したが、信達も今川氏親に属し、永正12年(1515年)には武田信虎(信直)に富田城(南アルプス市、旧甲西町を包囲されるが、今川氏の救援を得て大敗させる(『勝山記』『一蓮寺過去帳』』などによる)。
永正13年(1516年)には今川氏の甲斐侵攻を行っているが、翌永正14年(1517年)には吉田(富士吉田市)をはじめ各地で今川勢は撤退しており、武田氏は今川氏と和睦する。大井氏もこれに際して武田氏と和睦したと考えられ、娘(瑞雲院殿)を信虎の正室(人質)として差し出して降伏して臣従した(永正16年(1519年)に長女が誕生)。永正17年(1520年)には、娘婿であった東郡を領する今井氏の今井信元や栗原氏と結び再び信虎に背いているが、連合軍は各地で撃破され、大井氏は今諏訪の合戦で敗れている。同年に甲府の一蓮寺で催された和歌会の記録では「大井入道宗芸」と記されており、信虎から隠居と出家を命じられたと考えられている。家督は信業が継ぐが、信業、信業の遺児信為(次郎)が相次いで死去し、信常(上野介)が継いだ。
信達は文化人として知られ、永正3年(1506年)には飛鳥井雅康から「八代集秀逸」を与えられている。隠居後はしばしば和歌会を主催し、『為和集』によれば冷泉為和から「歌道執心の法師」と評されている。
[編集] 参考文献
- 黒田基樹「甲斐の統一」『山梨県史通史編2中世』