塩山市
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[編集] 地理
市域は南北に長く、国道411号が南北に貫く。市南部は笛吹川・重川(富士川水系)の流域であるが、国道411号の柳沢峠より北は、多摩川の流域である。市街地は市の南部にあり、鉄道駅や市役所もここに集中している。
[編集] 隣接している自治体
[編集] 歴史
牧庄は市域の藤木、小屋敷から旧牧丘町域に及び、平安時代後期には甲斐源氏の一族安田義定が本拠に勢力を持ち、藤木に放光寺を建立。義定は源頼朝の挙兵に参加して活躍し、安田氏の没落後には古代豪族の於曾氏が勢力を持つ。市域には古刹が多く、鎌倉時代後期の元徳2年(1330年)に牧庄主二階堂貞藤が鎌倉から夢窓疎石を招いて恵林寺が建立され、多くの著名禅僧が入山し甲斐国における臨済禅の中心地となった。また、康暦2年(1380年)に武田氏の寺領寄進で抜隊得勝が建立した向獄寺もあり、古刹が集中する。
1872年(明治5年)、山梨県庁による大小切税法の廃止に対して起こった反対運動である大小切騒動には市域の24か村が参加し、県庁側による鎮圧後に首謀者は断罪された。1875年(明治8年)には県令藤村紫朗の主導した青梅街道(青梅往還)改修工事が行われ、従来の大菩薩峠越えに代わり新たに柳沢峠越えの新道が開発された。明治期には養蚕業が振興され、1903年(明治36年)には中央本線の塩山駅が開設されると繭市場として発展し、甲州街道勝沼宿の宿場町として栄えていた勝沼に代わり東山梨郡の中心となる。
一方で、1881年(明治14年)の林野官民有区分により萩原山が官収されると、養蚕の木材需要があり、乱伐や盗伐など人的要因により林野の荒廃が進む。1907年(明治40年)に発生した明治40年の大水害では重川流域にでは堤防が決壊し、甚大な被害が出た。山梨県は小作地率が高く、養蚕業によって支えられた寄生地主制が成立していたが、大正9年の霜害により起こった七里村の下於曾農民組合の闘争は全県的な小作争議に発展する。
戦後には果樹栽培や、古刹の多い歴史的資源を利用した観光業へ移行。
[編集] 行政区域の変遷
- 1889年(明治22年)7月1日 - 町村制施行に伴い、東山梨郡に七里村が成立。
- 1928年(昭和3年)11月10日 - 七里村が町制施行・改称し塩山町となる。
- 1954年(昭和29年)3月1日 - 奥野田村を編入。
- 1954年(昭和29年)3月20日 - 玉宮村を編入。
- 1954年(昭和29年)3月31日 - 松里村,大藤村,神金村を編入。
- 1954年(昭和29年)4月5日 - 市制施行して塩山市となる。
- 2005年(平成17年)11月1日 - 勝沼町・大和村と新設合併して「甲州市」となり廃止。
[編集] 姉妹都市・提携都市
[編集] 国内
[編集] 海外
[編集] 教育
[編集] 高等学校
- 山梨県立塩山高等学校(三日市場)
[編集] 中学校
- 塩山中学校(下於曽)
- 塩山北中学校(上粟生野)
- 松里中学校(小屋敷)
[編集] 小学校
- 井尻小学校(上井尻)
- 塩山南小学校(上於曽)
- 塩山北小学校(千野)
- 奥野田小学校(熊野)
- 玉宮小学校(竹森)
- 松里小学校(小屋敷)
- 神金小学校(上萩原)
- 大藤小学校(上粟生野)
[編集] 交通
[編集] 鉄道
[編集] 道路
[編集] 有料道路
- 最寄りの高速道路インターチェンジは、中央自動車道勝沼インターチェンジ(旧勝沼町)である。
[編集] 一般国道
[編集] 県道
- 主要地方道
- 山梨県道34号中道塩山線(当時、現在は山梨県道34号白井甲州線)
- 山梨県道38号塩山勝沼線
- 一般県道
- 山梨県道201号塩山停車場大菩薩嶺線
- 山梨県道205号三日市場南線
- 山梨県道207号平沢千野線
- 山梨県道210号杣口塩山線
- 山梨県道213号下萩原三日市場線
- 山梨県道216号万力小屋敷線
- 山梨県道218号大菩薩初鹿野線
- 山梨県道508号大菩薩峠線