埼玉古墳群
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埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)は、埼玉県行田市にある、9基の大型古墳からなる古墳群である。
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[編集] 概要
古墳群は、9基の大型古墳の周りに陪臣の小型古墳があり、円墳35基、方墳1基からなる。しかし、昭和初期に周囲の沼地の干拓で取り壊されてしまった。
[編集] 歴史
- 各古墳の歴史については、主な古墳を参照。
日本書紀によると534年、安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされる。一部の学者は何の基盤の無い当地に突如として、関西に匹敵する中型前方後円墳が現れた事を考えれば、笠原を本拠としたといわれる武蔵国国造の墓ではないかと指摘している[要出典]が、まだ不明確な点が多い。
1938年(昭和13年)8月8日には、国の史跡に指定された。その後、さきたま風土記の丘という公園として整備され(現在のさきたま古墳公園)、古墳のほかに移築民家(旧遠藤家、旧山崎家)、さきたま史跡の博物館、はにわの館(実際に埴輪を作ることができる)などがある。
世界遺産へ登録しようという動きが2005年(平成17年)頃から地元住民を中心に起こっている。また現在、国指定史跡から特別史跡に格上げする働きが行われている。
[編集] 主な古墳
- 稲荷山古墳 - 金錯銘鉄剣が出土。
- 丸墓山古墳 - 日本最大の円墳。
- 二子山古墳 - 武蔵国最大の前方後円墳。
- 将軍山古墳 - 後円部に横穴式石室の内部が見学できる展示館が設置されている。
- 愛宕山古墳
- 瓦塚古墳
- 奥の山古墳
- 鉄砲山古墳
- 中の山古墳
鉄砲山古墳の東には浅間塚古墳があり、埼玉古墳群に含まれるケースがある。
埼玉古墳群の前方後円墳は、方形の二重の周濠を持つことが明らかになっている。前方後円墳の周濠の多くは盾形をしており、方形の周濠は他に例が少なく、埼玉古墳群の特徴の一つとなっている。また丸墓山古墳を除くと葺石が認められない点、古墳の主軸がほぼ一定の方向を指しているなどの特徴が認められる。
[編集] その他の古墳
風土記の丘として整備される以前は一帯が田畑であり、古墳はまったく整備されず野ざらしであった。そのため、小型のものの多くが明治末から昭和にかけて田畑や埋め立て用土として開拓された(さきたま古墳周辺は沼地が多く、農地には適していなかった)。
- 2号墳(梅塚古墳) - 円墳。麿塚古墳(まろづかこふん)とも。
- 直径24メートル。築造年代は6世紀前半。明治初期には大きな白梅があったが、1878年(明治11年)の冬に暴風によって倒れ、枯失。
- 3号墳(ボッチ山古墳) - 円墳。
- 直径13メートル、高さ2メートル。築造年代は6世紀前半。水鳥埴輪出土地。
- 4号墳 - 円墳。直径18メートル。築造年代は6世紀前半。
- 5号墳 - 円墳。直径26メートル。築造年代は6世紀前半。
- 6号墳 - 円墳。直径22メートル。築造年代は6世紀前半。
- 7号墳 - 円墳。直径22メートル。築造年代は6世紀前半。
- 山宮古墳(さんぐうこふん) - 円墳。
- 将軍山古墳と二子山古墳の中間にあった。1906年(明治39年)に開拓。
- 天祥寺裏古墳 - 円墳。
- 大人塚古墳(うしづかこふん) - 前方後円墳。
- 高さ3メートル、全長45メートル。築造年代は6世紀後半。渡柳地区の西端にあった。1913年(大正2年)に開拓。1914年(大正3年)に埴輪数点が出土した。
- 渡柳地区の西側などに存在していた小円墳十数基(現在はいずれも開拓され消失)と、この大人塚古墳を含めて、「渡柳古墳群(わたりやなぎこふんぐん)」として区別することがある。
この他、稲荷山古墳の東側などにも小円墳が存在していたことが伝聞や発掘により判明している。
[編集] さきたま火祭り
毎年5月4日に埼玉古墳群内の大芝生広場で行われる。「火祭り」という名は古事記に由来するものである。
古事記によれば、ニニギの命がコノハナサクヤ姫と婚姻。ニニギノミコトに一夜の交わりで身ごもったのを疑われたコノハナサクヤ姫は、疑いを晴らすために産屋に火を放ち、その中でホデリ(海幸彦)とホオリ(山幸彦)を生んだとある。
日中は郷土芸能や物産展、フリーマーケット等のイベントが行われる。日没後、古代衣装を身につけた人々が松明を掲げ、産屋炎上、丸墓山古墳と稲荷山古墳の御神火下りが行われる。
2000年(平成12年)5月5日には、「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に指定された。