坊城俊実
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坊城 俊実(ぼうじょう としざね、永仁4年(1296年) - 観応元年/正平5年2月23日(1350年3月31日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿・歌人。藤原北家勧修寺流の出身で、坊城家の祖。正二位権中納言坊城定資 (藤原定資)の子。母は藤原隆氏の娘。弟に勧修寺経顕・町口経量・坊城定茂がいる。室は権中納言吉田隆長女。子に坊城俊冬がいた。
終始持明院統を支持し、従五位上民部大輔から初任。正和4年(1315年)4月10日従四位下権右中弁になり、同年4月21日に従四位上に昇除される。正和5年(1316年)7月22日、正四位下右中弁に叙される。文保元年(1317年)2月5日に左中弁になり、同年3月27日に紀伊権守になり、同年4月6日左宮城使になり、同年6月1日に右大弁になる。更に同年6月21日正四位上に昇叙され、同年12月12日蔵人頭に任ぜられる。文保2年(1318年)2月11日に参議となり、同年4月に後醍醐天皇の大嘗会検校を務めた。同年5月11日に従三位に叙せられ、7月7日左大弁を兼ね、8月2日造東大寺長官を兼任した。
元応2年(1320年)3月24日、弟の経顕を右少弁に推挙して、自分は参議・左大弁を辞任し越中権守に転任した。翌年正月5日に正三位となった。元徳3年/元弘元年(1331年)持明院統の光厳天皇が即位すると政界に復帰し、10月5日に大宰大弐になり、同年12月1日権中納言になる。翌年大宰権帥を兼任し、同年2月26日従二位に昇叙される。正慶2年/元弘3年(1333年)5月7日、近江国番場宿で鎌倉幕府軍が全滅して光厳天皇が捕えられると、光厳天皇に従っていた俊実は出家して隠退した。観応元年/正平5年(1350年)2月23日、55歳で薨去。