土岐成頼
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土岐 成頼(とき しげより、嘉吉2年(1442年) - 明応6年(1497年))は室町時代の武将。美濃国守護。土岐氏第8代当主。一色義遠の子?。土岐持益の養子。子に土岐政房、土岐定頼、土岐元頼等が居る。法名は宗安。
美濃守護土岐持益の嫡男持兼が早世したため、持益は持兼の子の亀寿丸を後継ぎにしようとしたが、守護代の斎藤利永(宗円)がこれに反対して一色氏(諸説あり、土岐氏の一族の饗庭氏ともされる)の成頼を擁立して抗争となり、康正2年(1467年)に持益は隠居させられ成頼が守護となった。室町時代の中頃から多くみられるようになった守護代が守護の力を凌ぐ事例の一つで、美濃でも実権は守護代の斎藤氏が掌握していた。
応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると成頼は西軍に属した。成頼は8000余騎を率いて京都に在陣して戦い、美濃本国は守護代の斎藤妙椿(近年では甥の斎藤利藤が守護代で妙椿はその後見人であったと考えられている)が守った。有力国人の富島氏・長江氏(かつての守護代で斎藤氏に敗れて追われていた)が東軍に加わって斎藤方を攻撃して美濃は内乱状態になる。妙椿は富島氏・長江氏を破った。更に東軍が幕府と朝廷を擁している以上、敵の拠点になる恐れがあるとして幕府奉公衆の所領をはじめ、公家や寺社の荘園と国衙領を押領し国内を固めた。妙椿の勢力は尾張、伊勢、近江、飛騨まで広がり、成頼を意のままに動かし、更には西軍を左右するまでの存在になる。
文明9年(1477年)、応仁の乱の講和がなると成頼は西軍の名目上の総帥だった足利義視・義材の親子を庇護して美濃へ帰国した。義視父子は11年間、革手城に滞在している。
文明12年(1480年)に妙椿が死去すると斎藤利国(妙純)と斎藤利藤が後継を巡って争った(美濃文明の乱)。妙純が勝利して斎藤氏の力はさらに強まった。
長享元年(1487年)に長享・延徳の乱が発生して将軍足利義尚による六角高頼親征が始まると、次の標的は足利義視父子を擁している自分であると考えた成頼は突如挙兵して美濃山中に立て籠もって幕府軍を迎え撃つ準備を始めた。結果的に義尚の病死によって六角攻撃そのものに失敗し、美濃侵攻は起こらなかった。
明応3年(1494年)、成頼は三男の元頼を溺愛し、嫡男の政房を廃嫡して元頼に家督を継がせようと石丸利光に元頼を擁立させ、政房を推す守護代の妙純と戦うが、妙純を説き伏せ、西尾直教を追放する形で、一時的に和解させる(船田合戦)。
翌明応4年(1495年)6月、成頼は再び妙純と戦うが敗れる。同年7月、斎藤方と戦い敗走し、政房に家督を譲り、隠居して宗安と名乗った。
実際には斎藤妙椿によって国政を牛耳られていたとはいえ、その在世中は船田合戦を引き起こした晩年期を除けば、美濃の内外における土岐氏の名声が非常に高まった時期でもあった。このため、多くの文化人が戦乱を避けて美濃に逃れてきた。『岐阜』という地名は通説では織田信長が命名したとされているが、一説には成頼を頼って美濃に逃れてきた五山の禅僧が成頼を称える意図で革手城の背後にある稲葉山を岐山に例え、麓を「岐阜」と呼んだ故事から採用したとも言われている。
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