呉秀三
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呉 秀三(くれ しゅうぞう、元治2年2月17日(1865年4月14日)-昭和7年(1932年)3月26日)は、精神医学者。広島藩医呉黄石の三男として江戸・青山(現在の東京都港区)に生まれた。母・せきは箕作阮甫の長女。統計学者の呉文聰は兄。
東京帝国大学医科大学卒業。母校の教授や初代松沢病院長等を歴任し、日本の精神医学の草分けと言われた。また医学史にも深い関心を持ち、シーボルトや華岡青洲、外祖父・箕作阮甫等の伝記を著した。
最初の妻・みな(三浦千春の娘)との間に1男4女をもうけ、長男の呉茂一は西洋古典学者として有名。また長女・たまと四女・芳江はみなの実家・三浦家の養女となり、次女・かつは木村男也に、三女・いくよは斎藤助堯に嫁いだ。みなの死後、本多富次郎の娘・みつと再婚し(みつにとっては初婚)、次男・章二(元日大勤務)をもうけた。
幼いころから漢学を愛好したという。16歳で父母を相次いでなくした。経済的な困窮もあり、学生時代から医学書を出版した。森鴎外との交流があったことも知られている。富士川游と同郷であり、共著・共同編集している著作も多い。
「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」(1918)のなかで述べた「わが国十何万の精神病者はこの病を受けたるの不幸のほかに、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」という言葉は有名である。
[編集] 主要な著作
- 呉秀三・樫田五郎 「精神病者私宅監置ノ実況及び其統計的観察」 1918年
- 呉秀三 「精神病学集要」 前編1894年 後編1895年
- 増田知正・呉秀三・富士川游 「日本産科叢書」 1895年
- 呉秀三・富士川游 「日本醫籍考」 1893年
- 富士川游・呉秀三選集校訂 「東洞全集」 1918年
- 呉秀三 「華岡青洲先生及び其外科」 1932年
- 呉秀三 「シーボルト先生其生涯及功業」 1926年