吹田三暴力事件
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吹田三暴力事件(すいたさんぼうりょくじけん)とは、部落解放同盟(解放同盟)が1972年に大阪府吹田市で起こしたと日本共産党関係者が主張している三大「暴力事件」の総称。
吹田市には、解放同盟吹田支部が存在したが、1969年に発生した矢田事件で支部役員が共産党の主張に同調、呼応する動きを見せたため、大阪府連、中央本部は支部役員を統制処分にかけ、新しく府連、中央本部方針を支持する光明町支部を結成、大阪府連やそれを支援する総評系労組と、部落解放同盟正常化全国連絡会議(略称・正常化連)傘下に移行した従前支部やそれを支援する共産党勢力と対立が激化した[要出典]。共産党系は、解放同盟側の動揺を誘い、主導権を奪取するため[要出典]、刑事告訴を多用する戦術をとっていた[要出典]。一連の「事件」はそのような対立の過程で発生したものである[要出典]。
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[編集] 吹田高校事件
1972年1月25日、解同大阪府連合会吹田光明町支部長ら10数名が大阪府立吹田高等学校を訪れ、狭山裁判反対の署名と寄付を教職員に要求。このとき、生活指導部室に無断侵入して注意を受けたことを逆恨みした支部長は、映画『橋のない川』(今井正監督)の上映チラシに目をとめて文句をつけ、「差別映画の宣伝に対する糾弾」と称して教諭の顔を殴り、負傷させた。
[編集] 吹田二中事件
吹田二中事件も参照
[編集] ことぶき保育園事件
1972年9月、吹田市立ことぶき保育園にて、解同大阪府連合会吹田光明町支部長(上記の吹田高校事件の犯人と同一人物)の孫が転んで額にコブを作った。このことを保育園からの嫌がらせと曲解した支部長は、担任の保母を深夜まで糾弾。これを中止させるべく吹田市労働組合連合会の役員3名が吹田市民生部長に申し入れをおこなったところ、支部長は解同支部員30数名を3役員に差し向けて暴行を加えさせ、負傷させた。
この事件につき、同年9月27日、保母と父母会が光明町会館にて当時の吹田市長榎原一夫の司会のもとで話し合いを持っていたところ、支部長ら解同支部員30数名が無断で乱入し、話し合いを妨害。支部長らに退席を求めた市長は支部長から暴行を受け、全治7日から10日の傷を負った。
[編集] 判決
これらの3事件につき、支部長ら3名は教員や市労連役員たちから告訴され、1973年10月29日、大阪地裁で起訴された。
1982年9月13日、大阪地裁で3名全員に罰金5万円から25万円の有罪判決が下る。
1988年11月21日、最高裁で上告が棄却となり、有罪判決が確定した。
[編集] 参考文献
- 部落問題研究所編『「解同」は何をしてきたのか』(部落問題研究所、1994年 ISBN 4829810394)