南解次次雄
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南解次次雄 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 남해 차차웅 |
漢字: | 南解次次雄 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
なんかい・じじゆう |
片仮名: (現地語読み仮名) |
ナムヘ・チャチャウン |
ラテン文字転写: | Namhae Chachaung |
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南解次次雄(なんかい じじゆう、生年不詳 - 24年 は、新羅の第2代の王(在位:4年 - 24年)であり、姓は朴。二聖と称される新羅始祖赫居世居西干と閼英夫人との間の長子。王妃は雲帝夫人(または阿婁夫人)。紀元4年3月に始祖赫居世が亡くなり、王位についた。
[編集] 治世
即位元年(4年)7月には楽浪の侵入を受けて首都の金城が何重にも包囲された。このとき、王は自らの不徳を嘆いて群臣にどうするべきかを尋ねたところ、臣下の者は「我々が喪に服していることを恃んで賊が攻めてきたのであって、天佑は賊には及ばないであろうから、恐れることはない」と言った。やがて楽浪の兵は引き上げた。
賢者の昔脱解(後の第4代王の脱解尼師今)の噂を聞きつけて取立て、王の長女を嫁がせ、10年7月には大輔の役につかせ、軍事及び政治を任せた。
14年には倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった。
在位21年にして24年の9月以降に死去し、始祖赫居世の陵である虵陵(現在地未詳)の域内に葬られた。
[編集] 王の称号
『三国史記』及び『三国遺事』では金大問(8世紀の新羅の学者)の解説として、「次次雄」は「慈充」ともいい、巫(シャーマン)を表す語とし、鬼神に仕えるシャーマンへの畏怖から転じて尊称になったとする。また、こうした称号に現われることから、新羅初期の社会はシャーマニズムの支配する部族社会であったと見られている。
[編集] 参考文献
- 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5
- 『三国遺事』一然撰 坪井九馬三・日下寛校訂<文科大学史誌叢書>東京、1904(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)
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