北条氏舜
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北条 氏舜(ほうじょう うじとし、生没年未詳)は、戦国時代の武将。北条氏繁の長男・母は北条氏邦の娘新光院殿あるいは北条氏康の娘七曲殿とされている。官途名は左衛門大夫。
北条氏繁の病気の中、天正5年(1577年)当主北条氏政とともに出陣し、鬼怒川にて佐竹義重、宇都宮広綱、那須資晴と合戦を行っている。天正8年(1580年)8月までは武蔵岩付城代を務め、当主氏政の子北条氏房が岩付城主となると、玉縄城主となる。玉縄城主になると早速相模国東郡でのしかけなどで鳥を射ったり、取ったりすることを法度として禁じている。これは玉縄北条氏が鎌倉時代以来の行事である放生会の伝統を受け継ぐことを支配地域に示したものと考えられている。
なお、この法度を出した後、後北条氏の史料から彼の名前が全く見られなくなる。
従来から不明な点が多く、近年ようやく氏繁死後家督を継いだことが分かったほど(それまでは氏繁死後家督を継いだのは、弟北条氏勝だとされてきた。)の人物で、確認後も文書の残存率が低く、僅か7通しかない。また、未だどのように死去したのかも分からないため、今後の研究に注目される。
[編集] 参考文献
- 『歴史群像シリーズ14 真説戦国北条五代 早雲と一族、百年の興亡』(1989年、学習研究社) ISBN 405105151X
- 黒田基樹『戦国 北条一族』(新人物往来社、2005年) ISBN 440403251X