北れい吉
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北 昤吉(きた れいきち、1885年7月21日 - 1961年8月5日)は、新潟県佐渡市出身の思想家・評論家・政治家・教育者。鴨湖、光永、禮華と号す。北一輝の実弟。
[編集] 人物
早稲田大学で哲学を学び、いわゆるドイツ西南学派を研究。ベルグソンやリッケルト、クローチェなどの影響を受けている。
1914年より早稲田大学講師となり哲学を講ずる。またこのころより大正デモクラシーの旗手として論壇に登場し、民本主義の学問的根拠、政治学のあり方をめぐって吉野作造と論争する。1918年6月渡米、ハーバード大学等で学ぶ。その後フランス、イタリア、スイス、ドイツを歴訪し、1922年に帰朝。大東文化協会に入り大東文化大学教授、大正大学教授をも兼任する。同じ時期小川平吉の青天会や愛国勤労党など様々な愛国的団体に参加。1928年、総合評論雑誌「祖国」を創刊、自ら主幹となり評論活動に入る。この雑誌は本来左右を問わない言論発表の場であったが、後に「祖国(同志)会」の機関紙へと性質を変える。
早稲田大学時代の教え子であった金原省吾らに請われて帝国美術学校の創立者兼初代校長となるが、学校の運営と移転問題をめぐって学生と対立し、学生のストライキ事件を期に学校は分裂する。1935年、多摩美術専門学校(現在の多摩美術大学)を創設。1936年、二・二六事件直前の総選挙で無所属で当選し、政治家へと転身。当選後立憲民政党に入党。戦後一時公職追放に遭遇した時期を除き、衆議院議員として戦後まで活動することとなる。戦前より鳩山一郎と政治活動をともにし、翼賛選挙に反対して議員有志による「同交会」を結成、戦後は自由党鳩山派に属した。1952年より評論雑誌「猶興」を創刊。兄の北一輝とは相克があったともいわれるが、戦後に兄の「国体論」を出版するなど、その思想を肯定的に評価し、また影響を受けている面も見られる。また、「祖国」において軍国主義論、戦争哲学を発表したことなどから軍国賛美、極端国家主義的であるとしてパージの憂き目を見ているが、それら論評の真意については議論の余地がある。
[編集] 主要著作・訳書
- 『ベルグソン哲学の解説及び批判』(第一篇・第二編)1914年
- 『近世哲学史』(上・下)へフディング著・北訳 1917年~1924年
- 『哲学より政治へ』1918年
- 『光は東方より』1918年
- 『妥当性の哲学』1924年
- 『西洋哲学史』ロジャース著・北訳 1925年
- 『哲学概論』1926年
- 『哲学行脚』1926年
- 『昭和維新』1927年
- 『人間観』1928年
- 『再革命の独逸』1933年
- 『思想と生活』1937年
- 『ファッショと国家社会主義』1937年
- 『排撃の歴史』1941年
- 『戦争の哲学』1943年
- 『ヒューマニティーの再建』ソローキン著・北訳 1951年
- 『現代の危機』ソローキン著・北訳 1955年