加川良
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加川良(かがわ りょう、1947年11月21日 - )は、滋賀県彦根市出身のフォークシンガー。本名・小斉喜弘。なお、彼の芸名は、加山雄三の「加」、長谷川一夫の「川」、池部良の「良」を組み合わせたものと言われる。
[編集] 経歴
1970年代、アート音楽出版(URCの版権管理会社)に入社し、高田渡のマネージャーを務める。高田渡、岡林信康、高石ともやらの影響でフォーク・ソングを唄い始め、1970年の第2回中津川フォークジャンボリーでは飛び入りで「教訓I」を発表し、一躍人気者に(後に、「教訓II」なぎらけんいちや、「教訓110番」三上寛などパロディー作品も発表された)。『教訓』(1971年)でURCからデビュー。「こがらし・えれじい」「偶成」を含む『親愛なるQに捧ぐ』(1972年)、中川イサトとのライヴアルバム『やぁ。』(1973年)をたて続けに発表。また1972年、よしだたくろうの代表作『元気です。』に「加川良の手紙」(作詞・加川良、作曲・吉田拓郎)という曲が収録された。
1974年ベルウッドから名作『アウト・オブ・マインド』を発表。1975年中川イサトの神戸市長田区でのオムニバスライヴ『鼻歌とお月さん』のレコーディングに、いとうたかお・大塚まさじ・金森幸介・シバ・西岡恭蔵・長田タコヤキ和承と参加。その後も石田長生らをバックに従えた『南行きハイウェイ』(1976年)レイジー・ヒップとの『駒沢あたりで』(1978年オレンジレコード)を発表。1990年代『ONE』、『2』を発表。
岡林信康が一線から退いたのち、吉田拓郎と並んで“どちらがBIGになるのか”といわれた時期があった。拓郎のようなパワー、良質な言葉のセンス、リズム&ブルースやロックに近い音楽性、当時のフォーク・シンガーにないノリ。拓郎嫌いで有名な松山千春が拓郎が司会していた「LOVE LOVEあいしてる」に出演したとき「なぜ拓郎が嫌いなのか」の質問に対して「オレは岡林(信奉者)だったからさぁ。岡林のあと拓郎派と加川良派に分かれたわけよ。オレは加川良が好きになったからさ。好きの反対 吉田拓郎嫌いじゃん」と答えたことがある。その後の加川は拓郎ほどの名声を得ることはなかった。現在では前述の拓郎の曲「加川良の手紙」で歌われた人物としての方が知名度が高いかも知れない。理由は拓郎がポップに変わっていくのとは正反対に、ストイックに自らの音楽に忠実に、お金にならない歌を歌い続けたのが理由ともいわれている(参考:ぼくの音楽人間カタログ、山本コータロー、1984年)。