八つ裂きの刑
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八つ裂きの刑(やつざきのけい)とは、前近代に世界各地で行われていた死刑の執行方法の一種。被処刑者の四肢を牛や馬などの動力源に結びつけ、それらを異なる方向に前進させることで肉体を引き裂き、死に至らしめるものである。最も重い死刑の形態であり、酷刑として知られる。
四つ裂き・車裂きとも呼ばれ、総称して引き裂き刑と呼ばれる(ただし、中世ヨーロッパの「車裂きの刑」は引き裂き刑とは異なるものを指す)。
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[編集] フランス
中世フランスの Écartèlement は、最も重い死刑の形態であった。Écartèlement は、フランス語や英語において「バラバラにすること」を意味する言葉である。フランスの刑罰では、人体を両手・両足・胴体に5等分する方法になっている。これに対して適当な日本語訳として、通常「八つ裂き」が宛てられている。
フランスでは国王に対する殺人および殺人未遂、国王に対する反逆に対して実施されていた。馬を四頭用意して手足を縄で縛り、四方向に人体を引きちぎるという残酷な刑罰だった。
実際に実施された事例は非常に少なく、フランスの歴史上で5件しか行われていない。
- 1589年 - アンリ3世を殺害したジャック・クレマン
- 1594年 - アンリ4世に対する殺人未遂Jean Châtel
- 1610年 - アンリ4世を殺害したFrançois Ravaillac
- 1740年 - スイスの反乱農民の首謀者Pierre Péquigat
- 1757年 - ルイ15世に対する殺人未遂でロベール=フランソワ・ダミアン
正式に廃止されたのはフランス革命時で、1791年6月3日に立法院で刑法第三条が改訂され、死刑の方法が斬首のみになった時である。
[編集] ロベール=フランソワ・ダミアンの事例
ロベール=フランソワ・ダミアンは、ルイ15世の殺害を図って捕らえられ、1757年3月27日に八つ裂き刑に処せられた。この時の様子は、死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソンが詳細な手記を残しているため詳しく分かっている。
病気の父の代理として当時18歳だったシャルル=アンリ・サンソンが死刑執行人として臨んだ。実際に処刑を取り仕切ったのは叔父のニコラ=シャルル・ガブリエル・サンソンであった。
パリで八つ裂きの刑が行われるのは147年ぶりということもあり、だれも実際の手順を見たことがないため判決を聞いたシャルル=アンリ・サンソンとガブリエル・サンソンは必死になって公文書や歴史資料をあさって八つ裂きの刑の執行手順や必要な物を調べた。
八つ裂きの刑はあらゆる刑罰の中でも必要な道具と人員が最も多い刑罰であったため、準備に奔走した。 万が一にも当日になって道具が足りなくて執行できないようなミスがあれば特別な重罪人だけに厳しく責任追及されかねないため必死であったと伝えられている。
まず、寺院の前に連行され罪を告白する公然告白の刑が行われた。次にグレーブ広場に連行され処刑台の上に上げられると、まず、罪を犯した右腕を罰するために右腕を焼いた。次にペンチで体の肉を引きちぎり、傷口に沸騰した油や溶けた鉛を注ぎ込んだ。次に、地面に固定されたX字型の木に磔にされ、両手両足に縄を結んで四頭の馬で四方向に引きちぎろうとした。三度繰り返したが手足がちぎれなかったので、判事の許可を得て手足に切れ込みを入れた。最初に片足がちぎれ、残りの足もちぎれると、次に右手がちぎれた、ダミアンはこの時点で絶命していた。ダミアンのちぎれた死体は火にくべられて焼かれた。
ガブリエル・サンソンはこの仕事を最後に引退したという。
[編集] スペイン
- 1781年 - ペルーの叛乱首謀者ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ(トゥパク・アマル2世)
[編集] イギリス
イギリスには Quartering がある。英語で四等分を意味する言葉なので、この場合「四つ裂きの刑」と訳されることが多い。
大逆犯に対して行う死刑の過程をまとめて Hanged, drawn and quartered と呼ばれる。これは、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑と訳される。
- 1305年 - スコットランドの叛乱首謀者ウィリアム・ウォレス
- 1606年 - 火薬陰謀事件首謀者ガイ・フォークス
[編集] 中国
中国では車裂・車折・五馬分屍と呼ばれる刑があった。これらは通常、「車裂きの刑」と訳される。