入れ替わり
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入れ替わり(いれかわり)とは、この項目では小説やコミックなどのフィクションに描かれる、複数の人間の性格・記憶と肉体とが交換されてしまった物語の類型のことを解説する。いわゆる「とりかへばや物語」である。
記憶というものは脳という肉体の一部に刻まれるものであり、現実的には分かつことの出来ないものである。しかし、フィクションにおいては特に理論的な説明なしにこの現象は描かれ、スラップスティックコメディや当事者間の相互理解といった物語に多く用いられることが多い。
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[編集] 入れ替わりの典型的ストーリー
生活環境が近い人物二人はなんらかの事故的要素(衝突する、階段から共に落ちる、落雷を受けるなど)をきっかけに性格・記憶と肉体とが交換されてしまう。その際二人はすぐには元に戻ることが出来ず、肉体に合わせてお互い相手として生活されることを余儀なくされる。
ここでよく描かれるのは、相手になることに大きくとまどいを感じたり、周囲の人間がその変化に対応出来ない入れ替わった人物たちに驚く様や、その人物でしか体験し得ない苦労を文字通り相手の立場になって体験する様などである(そのため、入れ替わる相手が「男性と女性」、あるいは「若者と老人」のような対照的な立ち場、価値観にある場合のほうがそのギャップがより強調され物語として支持を得やすい傾向がある)。
それらの体験を経た二人は入れ替わったのと同じ様な体験をし元に戻る。
[編集] 入れ替わり物語の変遷
人間の性格・記憶と肉体とが交換されてしまうという物語がどの時代に生まれたのかというのははっきりしていない。日本においては江戸時代から伝わる落語や民話の中に一緒の部屋で寝た人物同士で魂が交換されてしまった、というものが幾つか存在している。西洋においても『シャーロック・ホームズ』で有名なコナン・ドイルが書く小説の中に婦人の魂が交換されてしまうという話を書いている。これらが確認出来る中でもっとも古い類のものだが、共通してオカルト的な現象としての意味合いが強い。
20世紀の中頃からより人間の性格・記憶と肉体といったものをより記号的な扱いをする作品が多くなる。コメディなどの物語にこれらの設定が扱われることが多くなってきたのだ。これは科学の進歩や娯楽の多様化などに伴う社会的な状況も関係しているのだろう。アメリカでは夫婦入れ替わりコメディドラマ『TURNABOUT』(1940)などが作られているし、日本でも戦前の兄妹の入れ替わりを描いた小説『あべこべ物語』(1932)などが発表されている。
これら非日常な要素を扱った極めて荒唐無稽なコメディとしての色合いが強かった入れ替わり物語だが、時に日米同じくして1980年前後に作られた映画がこのジャンルの金字塔として認知されることになる。アメリカ映画の『フリーキー・フライデー』(1977)と日本映画の『転校生』(1982)だ。もちろんこれらにもコメディ的な要素はあるのだが、人情物語として大人の鑑賞にも堪えうる作品の作り方がなされており、またビデオ普及の恩恵もあってどちらもこのジャンルの代名詞と言えるほどの知名度を確立するに至った。前述の典型的ストーリーもこの二作品の影響によるところが大きく、今でも入れ替わりという設定を使った作品が発表されるたび上記二作品が引き合いに出されることが多い。
極めて独特な設定の物語ではあるのだが、コメディや同人などの二次創作での扱いやすさは現在においても健在であり、様々な作品が発表され続けている。
[編集] 代表的な入れ替わり作品
- 映画
- フリーキー・フライデー(1977)
- 転校生 (映画)(1982)
- キスへのプレリュード(1992)
- フォーチュン・クッキー (映画)(2003)
- テレビドラマ
- チェンジ!(1998)
- ぼくの魔法使い(2003)
- 世にも奇妙な物語 '06秋の特別編 「部長OL」 (2006)
- パパとムスメの7日間(2007)
- コミック
- 小説
- おれがあいつであいつがおれで(1979)
- 先輩とぼく(2004)
- パパとムスメの7日間(2006)
[編集] ネットコミュニティにおける扱い
本来この入れ替わりというものはジャンルと呼ぶより単なるドラマツルギーにしかすぎない。だが、インターネット上にはこの入れ替わりという現象そのものに魅力を感じた人物たちによってコミュニティが形成された。そのコミュニティにおいては独自に創作した小説などを発表したり、データベースを作成される文化が生まれたのだ。一般においてはジャンルとしては扱われてはいないが、TSFの一パターンとしてのジャンルを確立している。