催馬楽
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催馬楽(さいばら)とは、古代歌謡の一つ。催馬楽の語源については馬子唄や唐楽からきたとする説などがあるが定かではない。
[編集] 概要
平安時代初期に一般庶民の間で発生した歌謡が宮廷貴族の間に取り入れられたものである。元々一般庶民で歌われていたものであることから、特に旋律は定まっていなかったが、大歌として宮廷に取り入れられ、雅楽に組み込まれてから何度か符の選定が行われ、平安時代中期には律・呂という2種類の旋法が定まった。
歌詞には古代の素朴な恋愛などを歌ったものが多く、4句切れの旋頭歌など様々な歌詞の形体をなしている。
催馬楽の歌い方は流派によって異なるが、伴奏に琵琶、箏(そう)、笙(しょう)などがもちいられ、舞はない。
「催馬楽」については、さまざまな説があるけれども、列挙すれば、(1)、諸国から朝廷に貢物を運搬するときにうたった歌で、ウマを催す意、(2)、「いで我が駒早く行きこそ」というウマを催す意の歌が初めにあるから生じた名、(3)、大嘗会に神馬を牽(ひ)くさいにうたった歌、(4)、神がウマとなってあらわれることを催す意、(5)、神楽の前張の拍子でうたったからその名をとった、(6)、唐楽に催馬楽(あるいは催花楽)があり、その拍子にあわせた歌であるからその名を取った、(7)、薩摩に催馬楽村があり、その付近では都曇答蝋、鼓川、轟小路などの地名があり、ここに住んでいた楽人がうたいはじめた歌謡、(8)、馬士唄の意。
曲目は次の61曲。
- 律(25曲) - 我駒、沢田川、高砂、夏引、貫(ぬき)河、東屋(あづまや)、走井、飛鳥井、青柳、伊勢海、庭生(にはにおふる)、我門爾、我門乎、大路、大芹、浅水(あさうづ。浅水橋とも)、挿櫛、鷹子、逢路(あふみぢ)、道口、更衣(ころもがへ)、何為(いかにせん)、 鳴(とりなき)、老鼠(西寺とも)、隠名(くぼのな)。
- 呂(36曲) - 安名尊(あなたふと)、新年、梅枝、桜人、葦垣、山城、真金吹、紀伊国、葛城、竹河、河口、此殿者(このとのは。此殿とも)、此殿西(倉垣とも)、此殿奥(酒屋とも)、鷹山、美作、藤生野、妹与我(いもとわれ)、浅緑、青馬、妹之門(いものかど)、蓆田(むしろだ)、大宮、総角(あげまき)、本滋(もとしげ)、美濃山、眉止之女(まゆとじめ。御馬草(みまくさ)とも)、酒飲(さかたうべ)、田中井戸、無力蝦(ちからなきかはづ)、難波海、鈴之川(すずかがは)、石川、奥山、奥々山、我家(われいへ)。
このほかに大嘗会の風俗歌が催馬楽としてふえ、律歌に「千年経(ちとせふる)」、「浅也(あさや)」の2曲、呂歌に「万木(よろづき)」、「鏡山」、「高島」、「長沢」の4曲がくわわり(「簾中抄」)、男蹈歌のさいにうたわれる「絹鴨曲」(「何曽毛曽(なにぞもそ)」とも)も呂歌にくわわり、「教訓抄」には「安波波」という曲名がみえる。ふつうの短歌を催馬楽の調子でうたった例がおおい。源俊頼の「つくし舟うらみを積みて戻るには葦辺に寝てもしらねをぞする」が「袖中抄」に催馬楽としてかかげられており、「宇津保物語」祭使の巻には「大君来まさば」(「我家」)の声振に歌「底深き淵を渡るに水馴棹長き心も人やつくらん」をうたい、「伊勢海」の声振に歌「人はいさ我がさす棹の及ばねば深き心をひとりとぞ思ふ」をうたった。催馬楽は民間の俚謡、流行歌の類が、貴族の宴席のうたいものにとりいれられたものである。このなかには貴族の新作和歌もくわわり、また大嘗会の風俗歌がはいっている。神楽の余興にもこれがうたわれていて、大小前張、早歌、雑歌の類は、もとは催馬楽からでたものである。神楽の大前張を催馬楽曲としるした譜本があり、嘉禎節付本には「大前張以下半出(二)於催馬楽(一)」((一)、(二)は返り点)と注されている。また神楽「其駒」について「吉野吉水院楽書」では「本催馬楽也」としるされ、「朝倉」について「郢曲抄」には「朝倉催馬楽の音にして三段に唱ふ」としるし、「神楽譜」には「朝闇吹(二)返催馬楽拍子(一)」((一)、(二)は返り点)としるされているのは、これらがふるくは催馬楽の曲であったことをしめしている。催馬楽のなかの古歌は、「我駒」が「万葉集」巻12にあり、「葛城」は光仁天皇即位のときの童謡で「続日本紀」、「日本霊異記」にあり、「妹之門」は「万葉集」巻11にあり、「河口」は「古今六帖」にある。畿内をはじめ三河、越前、尾張、伊勢などの民謡とおもわれる歌がおおくはいっている。うえにのべたような歌謡が貞観年間ころにひとつの書物にまとめられ、ついで、一条雅信によって延喜20年ころ撰譜され(一説に藤原忠房によって作譜されるという)、以後、藤家および源家によって歌曲はつたえられた。藤家よりは源家ぼほうがさかえて、催馬楽の名人は源家のほうにおおくでた。しかし催馬楽は廃曲がしだいにふえ、また藤家と源家とではつたえられる曲にちがいがあり、平安時代後期に61曲のうち廃曲がじゃっかんあった。こうしてじょじょにへってゆき、戦国時代に廃滅に瀕して、寛永3年9月四辻季継に詔があり「伊勢海」が復興された。天和2年2月催馬楽がおこなわれ、復興曲はふえ、呂は安名尊、梅枝、蓆田、簑山、山城の5曲、律は伊勢海、更衣の2曲、あわせて7曲が存する。催馬楽は中世には雅楽とともにうたわれた。その組み合わせをしめせば、
伊勢海 - 拾翠楽(陪臚とも)、桜人 - 地久楽破、簑山 - 地久楽急、田中井戸 - 胡飲酒破、眉止自女 - 酒清子、高砂 - 長生楽破、葦垣 - 西王楽序、夏引 - 夏引楽、青柳 - 夏引楽序(一説に喜春楽また万歳楽)、酒飲 - 胡徳楽、雞鳴 - 雞鳴楽(一説に甘州)、無力蝦 - 古簡、石川 - 節世岐、紀伊国 - 白浜、老鼠 - 林歌、鷹山 - 放鷹楽、葛城 - 榎葉井、走井 - 甘州、庭生 - 喜春楽(一説に曩頭楽)、飛鳥井 - 廻忽、更衣 - 郎君子(一説に三台破)、何為 - 三台急(一説に三台破)、道口 - 五聖楽破急、浅水 - 太平楽破
中世においては催馬楽のつくりかえの歌が寺院の法会などでうたわれた。たとえば、「青柳」は「 極楽は日想(にさう)観に寄せてや思へ其荘厳(かざり)めでた水を見て瑠璃の池に思をかけよ深き益(やく)ありや」とうたい、「伊勢海」は「瑠璃の地の木立めでたや宝の池の黄金の浜ごとに玉や拾はむや玉や拾はむや」のようにうたった。このように中世には雅楽は法楽にもちいられることがおおかった。催馬楽の伴奏では、笙、篳篥、笛、琵琶、琴、和琴などがもちいられた。