佐々木信綱
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佐々木信綱(ささきのぶつな、1181年(養和元年)? - 1242年4月7日(仁治3年3月6日))は平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。
[編集] 生涯
養和元年(1181年)頃、後に近江国守護を務める佐々木定綱の四男として生まれる。
建保2年(1214年)には左近衛将監を務めており、同年1月22日や7月27日の吾妻鏡にその名が見られる。承久2年(1220年)7月26日、出家し経仏と号したという。
承久3年(1221年)6月14日、承久の乱に幕軍として加わり、宇治川を挟んで対する官軍を攻めるべく、芝田兼義、中山重継、安東忠家らと共に川へと入るが、官軍からの矢と急流により渡れず、中州において長男の重綱を総大将である北条泰時の陣へと遣わし援軍を求め、泰時の長男である時氏と共に川を渡り官軍を破る。これにより乱の大勢は決し、7月2日に官軍に属した長兄の広綱は斬首となり、翌年の9月22日に信綱は宇治川での戦功により佐々木氏の本貫地である近江国佐々木豊浦、羽爾堅田、栗本北郡の地頭職を得る。
嘉禄2年(1226年)1月、前年暮れに元服した藤原頼経の征夷大将軍宣下を得る為の、朝廷への使者を務め、寛喜4年(1232年)には近江守に任ぜられる。
文暦2年(1235年)、承久の乱で得た佐々木豊浦に代わり、尾張国長岡の地頭職を得る。仁治3年(1242年)3月6日に61歳で没し、蒲生郡老蘇村にて老曽明神として祀られたという。
近江は長男の重綱が坂田郡大原荘を、次男の高信が高島郡田中郷を、三男の泰綱が宗家と江南に在る神崎、蒲生、野洲、栗太、甲賀、滋賀の六郡を、四男の氏信が江北に在る高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡を分けて継いだ。
[編集] 史料
- 『吾妻鏡』
- 『西讃府史』
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