伐休尼師今
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伐休尼師今 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 벌휴 이사금 |
漢字: | 伐休尼師今 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
ばっきゅう・にしきん |
片仮名: (現地語読み仮名) |
ボルヒュ・イサグム (ボリュ・イサグム) |
ラテン文字転写: | Beolhyu Isageum |
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伐休尼師今(ばっきゅう にしきん、生年不詳 - 196年)は、新羅の第9代の王(在位:184年 - 196年)であり、姓は昔。父は第4代の脱解尼師今の子の仇鄒角干、母は金氏の只珍内礼夫人。184年3月に先代の阿達羅尼師今が死去したときに嗣子がいなかったため[1]、国人に推挙されて王位についた。
[編集] 治世
185年に初めて軍主の制度を設け、波珍飡(4等官)の金仇道[2]と一吉飡(7等官)の仇須兮を任命し、召文国(慶尚北道義城郡)を討伐させた。この後、百済との交戦が激化し、188年2月には百済から母山城(忠清北道鎮川郡)[3]を攻められ、金仇道がこれを撃退した。189年には金仇道が狗壌(忠清北道沃川郡)で百済と戦って勝利を収めた。さらに190年8月、百済は円山郷(慶尚北道醴泉郡)[4]に攻め入り、缶谷城を包囲した。このときに金仇道は騎兵500を率いて反撃し、蛙山まで出撃したが百済軍に敗れることとなった。[5]
193年6月には倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入したという。
在位13年にして196年4月に死去した。埋葬地は伝わらない。
[編集] 脚注
- ^ 『三国史記』新羅本紀・神徳王即位前紀では、第51代の神徳王を阿達羅尼師今の遠孫としている。このことについては神話の造作であったり王統系譜の造作であり、史実として論じるべき問題ではないと指摘されている。(→井上訳注1980)
- ^ 金仇道は金閼智の6世孫であり、後の13代味鄒尼師今の父に当たる。
- ^ 母山城については他に忠清北道陰城郡とする説、全羅北道南原市雲峰邑とする説もある。
- ^ 円山郷については忠清北道鎮川郡とする説もある。また、新羅時代には地方名に○○郷とする事例はほとんどない、とされる。(→井上訳注1980)
- ^ この敗戦の責任を問われ、金仇道は軍主の地位を退けられ、缶谷城の城主とさせられた。もともと城主というのは地方の有力者を指すものであったが、中央から城主として赴任する例は稀であるとされる。(→井上訳注1980)
[編集] 参考文献
- 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5
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