伊丹康勝
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時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 天正3年(1575年) | |||
死没 | 承応2年6月3日(1653年7月8日) | |||
別名 | 喜之助(幼名) | |||
戒名 | 蓮誉順斎道哲長仙院 | |||
墓所 | 東京都港区虎ノ門の天徳寺 | |||
官位 | 従五位下、播磨守 | |||
藩 | 甲斐徳美藩主 | |||
氏族 | 伊丹氏 | |||
父母 | 父:伊丹康直、母:岡部常慶の娘 | |||
兄弟 | 伊丹虎康、伊丹虎重、伊丹康勝 伊丹重好、伊丹直勝、伊丹勝久 妹(大草正重室)、妹(酒井昌明室) |
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妻 | 正室:興津内記の娘 | |||
子 | 伊丹勝長、伊丹武勝 岡部勝重、娘(土岐頼行室) |
伊丹康勝(いたみ やすかつ)は、江戸時代初期の幕臣・勘定奉行。甲斐徳美藩の初代藩主。
天正2年(1575年)、当時は武田勝頼の重臣であった伊丹康直の三男として駿河清水で生まれる。
天正14年(1586年)、徳川秀忠に出仕する。慶長10年(1605年)に秀忠が将軍を襲職して以降は江戸での勘定頭として、駿府城での松平正綱とともに幕府の財政政策に携わり、佐渡奉行をはじめ天領の管理も担当。元和8年(1622年)の本多正純改易では、上使として山形に赴いている。寛永元年(1624年)には新将軍徳川家光に属した。寛永10年(1633年)2月には、徳川忠長改易後の甲斐に入り、甲府城番を担当し、同時に3,000石の加増を受けて大名に列し、徳美を居所とする。
勘定奉行の身ながら老中並みに幕閣の中枢に参与した。秀忠付の老職・土井利勝の後ろ盾を得て辣腕を振るったが、その立場を利用して大名家へ金を貸し付けたり、自らの縁故者を要職に就けたりと専横が目立つようになった。それを見兼ねた家光は寛永10年(1633年)9月、松平正綱とともに勘当を言い渡し、事実上失脚(表向きの理由は、旗本への知行地配分のミス)。寛永11年(1634年)5月に天海の口ぞえで赦免されて復職するものの、以前の如く数多の職掌を兼ねることはなかった。
承応2年(1653年)6月3日に死去。享年79。後を長男の伊丹勝長が継いだ。
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