五井昌久
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五井 昌久(ごい まさひさ 1916年(大正5年)11月22日 - 1980年(昭和55年)8月17日)は、宗教法人白光真宏会を開いた戦後の宗教家。祈りによる世界平和運動を提唱。
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[編集] 経歴
1916年11月22日、東京の浅草(現東京都台東区千束)に8人兄弟の4男として生まれる。音楽家をめざし、苦学して音楽の勉強をする。また詩作にも励み、高村光太郎や竹内てるよにも教えを受けた。
1940年、日立製作所の亀有工場に入社。文化活動の中心者として、学徒動員された青少年の心を癒そうとつとめた。
大戦終了後、日本のため、人類のために自分の命を捧げたいとの想いが湧き、宗教心が芽生える。岡田茂吉の霊線療法に興味を持ち、岡田の弟子に講習を受け病人の治療を開始する。また、生長の家の谷口雅春の教えに感銘を受け弟子になる。生長の家の講師として活動を開始するが、後には生長の家から離れることになる。
1950年7月、結婚。子供はもうけなかった。
1955年2月、千葉県市川市に宗教法人「五井先生鑽仰会」を設立(なお、もともと、「五井先生鑽仰会」は、五井を師と仰ぐ人々によって結成されたものである)。のちに「白光真宏会」と改称。
当初の活動は、人生指導や病気治療を主とした活動であったが、その根底にある思想は、人々の心が平和になることによる、大調和世界(完全平和世界、地上天国)の実現であった。
1980年8月逝去。その活動は白光真宏会2代目会長・西園寺昌美に受け継がれた。
[編集] 根本思想
- 1.人間は本来、神の分霊であって、業生ではない。
- 2.人間は守護霊・守護神によって常に守られている。
- 3.この世の中のいかなる苦悩も、現われれば必ず消えてゆく。苦悩は消え去ってゆくのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起こし、どんな困難の中にあっても自分を愛し人を愛し、自分を赦し人を赦す愛と真と赦しの言行をなしつづけなさい。
- 4.自分を守っている守護霊・守護神への感謝の心を常に想い、世界平和の祈り(※)を祈りつづけなさい。
これを実行していると、個人も人類も真の救われ(正覚)を体得できる(個人人類同時成道)。
[編集] 守護霊・守護神
五井の宗教は別名、守護霊守護神教とも呼ばれるくらい、守護霊・守護神の重要性を強調している。守護神とは神の救済面、愛の働き(神のもう一つの働きは法則である)の権化で、人類救済の任を帯びた偉大な光明体である。守護霊は、守護神によって救済され、個人守護の任を与えられた、先祖の悟った霊である。守護霊には、個人の主運を導く正守護霊と、仕事の面で補佐する副守護霊がある。人間が安心立命の心境に到達する第一歩は、自分の背後で見守っている守護霊・守護神の存在を認め、その守護に感謝することであると五井は説いている。
[編集] 世界平和の祈り
- 世界人類が平和でありますように
- 日本が平和でありますように
- 私達の天命が完うされますように
- 守護霊様ありがとうございます
- 守護神様ありがとうございます
[編集] 主著
- 『神と人間』:五井昌久の神観・人間観の詳説
- 『天と地をつなぐ者』:霊覚者になるまでの自叙伝
- 『小説 阿難』:釈迦の十代弟子の一人・阿難を主人公にした小説
- 『老子講義』:老子の現代的解釈
- 『聖書講義』:仏陀との比較でイエスの真意を明らかにする
(いずれも白光出版[1]刊)
[編集] 人脈
五井昌久と肝胆相照らす仲であったのは、合気道開祖・植芝盛平である。五井は植芝を「神の化身」と讃え、植芝は五井を「祈りのご本尊」と敬った。また、東洋学者の安岡正篤や作曲家の古賀政男も五井を敬愛した。紅卍会とも交流があり、フーチによって「昱修(いくしゅう)」(光を身に修めた者)という道名をもらった。会員であった琉球王家の血をひく尚悦子は、病気をきっかけに五井の養女となり、昌美と改名し、西園寺裕夫(西園寺公望の曾孫)と結婚、五井の死後、白光真宏会会長を継承した。
[編集] 五井の思想から生まれた平和活動
五井昌久は、個人の救済のみならず、世界平和の樹立を希求していた。五井の理念は現在では、白光真宏会[2](本部は富士宮市)のほか、「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉を中心とした平和運動団体 World Peace Prayer Society[3](本部はニューヨーク州)、非宗教の立場で平和への人類の叡智を結集することを目的とする五井平和財団[4](東京)という三つの団体に受け継がれている。
[編集] ピースポール
ピースポールとは、「世界人類が平和でありますように」という言葉が書かれたポール。英語の《May Peace Prevail on Earth》をはじめとして、世界各国語にも翻訳されている。平和のシンボルとして日本各地、世界各国の神社・お寺・教会・公園等に建立されている。
ただし、国外まで行ってポールを立てるという行為に対して、現地から「文化侵略」であるとの批判も受けている[1]。また、地域の風水を破壊している可能性も危惧されている。
[編集] 脚注
- ^ 「日本人插和平柱 學者批荒謬、文化侵略(中国語)」、東森新聞報、2007年5月13日。