九条稙通
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九条 稙通(くじょう たねみち、永正4年1月11日(1507年2月22日)-文禄3年1月5日(1594年2月24日))は、戦国時代・安土桃山時代の関白・古典学者。父は関白九条尚経、母は従三位三条西保子(三条西実隆女)。兄弟に花山院家輔・尋円(興福寺別当)・経子(二条尹房室)らがおり、養子に九条兼孝(二条晴良の子)がいる。玖山・樵翁・江南漢翁などの別号を持つ。一字名は玖・身。
永正11年(1514年)、8歳で元服して正五位下より従四位上に昇叙され、更に従三位非参議となり右近権少将に任ぜられる。同13年(1516年)正三位となり、同14年(1517年)従二位となり、大永元年(1521年)権中納言になり、翌2年(1522年)に正二位権大納言になる。同4年、左大将に任命。享禄元年(1528年)内大臣となり、天文2年(1533年)27歳で関白藤氏長者となった。翌年未拝賀のまま関白氏長者を辞任し、摂津国に出奔して滞留12年に及んだ。天文13年(1544年)に播磨国に移る。弘治元年(1555年)従一位に叙せられ、同年49歳で出家して法名を行空(後に恵空と改める)とした。
出家後は有職故実及び古典学の大家としての活動が目覚しい。祖父三条西実隆に学び、実隆から『源氏物語』の秘伝を受けた。また伯父三条西公条より二条晴良と共に『源氏物語』の講義を受けたが、『源氏物語竟宴記』はその竟宴記であり、天正3年(1575年)には長年の研究の成果である注釈書『源氏物語孟津抄』(別名『九禅抄』)全54巻を著した。また稙通には『称名院右府(三条西公条)七十賀記』『長源院を悼める辞』などの文藻もあり、洛西嵯峨周辺の旅日記『嵯峨記』も書いた。この間、九条家経済の興隆にも尽力したが叶わず、任関白の未拝賀も経済の困窮によるものだった。
天正2年(1574年)5月11日、68歳の稙通は家領・家伝記録類の一切を養子の兼孝に譲ったが、譲状の中で数十ヵ年の努力にも関わらず家門再興が果たせなかった無念を記している。晩年は東福寺門前の乾亭院に住んだ。織田信長が上洛した際も強硬姿勢を崩さず、豊臣秀吉の藤原氏への改姓の不可を論じその関白就任にも反対していた。文禄3年(1594年)正月5日、88歳で薨去。法号は東光院または東山院。
[編集] 参考文献
- 平野邦雄・瀬野精一郎編『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館、2006年。
- 野島寿三郎編『公卿人名大事典』日外アソシエーツ、1994年。
- 近藤敏喬編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年。