中野清茂
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中野清茂(なかのきよしげ、明和4年(1768年) - 天保13年(1842年))は、江戸時代後期の9000石旗本。播磨守。別名・中野碩翁(中野石翁、なかのせきおう)。正室・不明。後妻に宮原義潔の娘を迎えたが、離婚している。
鋭い頭脳を有し、風流と才知に通じていたとされる。幕府では御小納戸頭取、新番頭格を勤め、十一代将軍徳川家斉の側近中の側近であった。また、家斉の愛妾・お美代の方(専行院)の養父でもある。新番頭格を最後に勤めを退いて隠居、剃髪したのちは碩翁と称した。隠居後も大御所家斉の話し相手と随時、江戸城に登城する資格を有していた。このため諸大名や幕臣、商人から莫大な賄賂が集まり、清茂の周旋を取り付ければ、願いごとは半ば叶ったも同然とまでいわれた。本所向島に豪華な屋敷を持ち、贅沢な生活をしていたが、1841年に家斉が死去し、水野忠邦が天保の改革を開始すると、登城を禁止されたうえ、向島に逼塞した。