中村清
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中村清(なかむらきよし、1913年6月1日 - 1985年5月25日)は、日本の陸上競技指導者。ソウル出身。日本を代表する名伯楽と評価されているが、その指導スタイルから、旧時代の代表とされることもある。
中学生のとき、父が病に倒れて生活が苦しくなり、そのつらさを走ることで忘れた。戦前の1936年ベルリンオリンピック1500mに出場経験を持つ。このとき、外国選手にまったく歯が立たず、一方マラソンでは朝鮮半島出身の孫基禎が金メダルを獲得したことから、「日本人がランニングで世界に勝てるのはマラソンだけ」という信念を抱くに至ったといわれる。ソウル出身であることから孫とも親しかった。
戦争中は陸軍士官として従軍(このことからのちに取材に対して「わしは何人も人を殺しているんだ」と相手を恫喝することさえあったという)。戦後、母校である早稲田大学競走部の監督に就任した。その収入の多くを選手育成につぎ込み、食糧難の時代にも選手には潤沢な食事を与えた。篠田正浩を指導したこともある。また、東京オリンピックの最終聖火ランナーである坂井義則にランニングの指導を行ったのも中村である。
しかし、指導方法に対してOBなどから批判が出たため、早稲田大学競走部監督を辞任。早稲田を離れてからは実業団の東急の監督などを務めた。
その後、箱根駅伝をはじめとする長距離種目で早稲田大学が弱体化したことから懇願されて1976年に復帰。「世界に通用するマラソン選手を育てる」ことをめざし、瀬古利彦を見いだして育て上げた。1980年、瀬古の就職に合わせ早稲田大学と兼務する形でヱスビー食品陸上部の監督に就任。瀬古の成功に刺激されたランナーが中村の門を叩くこととなり、「中村学校」の異名を取った。その門下生には早稲田出身の金井豊のほか、外部からヱスビー食品入りした中村孝生、新宅雅也、佐々木七恵、ダグラス・ワキウリらがいる。
その指導方法は独特で、選手を長時間戸外に立たせたまま、陸上とは直接関係のない仏教やキリスト教などを引用した講話をすることも珍しくなかった。
- 1976年に再就任した際、中村は部員達に対し、「こんなに弱い早稲田にしてしまってOBの一人として申し訳ない。俺が謝る」と言い、自分の顔を何発も殴ったという。これで部員達に熱意が本物であることを感じ取らせようとした。
- 選手全員に強制的にスポーツ刈りを命じ、その意を部員達に汲み取ってもらえない苛立ちから地団駄を踏んで、足を骨折してしまった事さえあった。
- 「諸君はこの土を食べれば世界一になれるというなら、食べるか。私は食べる」とやおら足下の野草の付いた土をつかんで口に含んだこともあったという。
このようなエピソードから中村が名門・早稲田復活へ並々ならぬ意欲を燃やしていたことが分かる。また、ヱスビー食品所属の選手は自宅に同居させ、生活の細かな点まで管理を行った。
このように、精神主義的といわれる反面、マラソンに関するデータ収集には人一倍手間をかけ、ライバル選手の家系まで調べたともいわれる。それらのデータから選手に最高のコンディショニングを施し、勝てるレース運びを伝授するのが中村の手法であった。
口癖は「マラソンは芸術です」。また「年に一度選手に大輪の花を咲かせるのが私の使命」とも語っていた。
しかし、悲願であったオリンピックのマラソン金メダルには数々の不運も重なり、ついに手が届かなかった。チャンスだったモスクワオリンピックは日本がボイコット、ロサンゼルスオリンピックは複数の選手の指導に目が離れ、瀬古のコンディショニングに失敗した。またロサンゼルスオリンピックの頃に中村は癌を発症しており、それを知った瀬古がショックを受けたともいわれる。