中川五郎治
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中川 五郎治(なかがわ ごろうじ、明和5年(1768年) - 弘化5年9月27日(1848年10月23日)は日本における種痘法の祖。
[編集] 生涯
明和5年(1768年)、小針屋佐助の子として陸奥国川内村(旧南部藩、現青森県むつ市川内町)に生まれる。松前に渡奉公に出るが、やがて柏木庄兵衛の世話で場所稼方として択捉島に渡る。のちに番人小頭として島内の漁場を取り締まる。
4年〈1807年〉4月24日、日米紹介の船2船に乗ったロシア人に番屋を襲撃され、佐兵衛とともに捉えられてシベリアに連行される。文化6年(1809年)オリヤ河畔に脱走するが捕らえられ、オホーツクに送還される。翌年再び2人で逃亡しトゴロ地方に渡るが、佐兵衛は病死し、彼も再び捕われの身となり、ヤクーツクへ連行される。さらにイルクーツクに送られ取調べを受けるが、日本に幽閉中のジアーナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン中佐との捕虜交換の為に、文化7年(1810年)カムチャツカに漂着した歓喜丸の水夫らとともに、日本へ送還されることとなる。
文化9年(1812年)2月にオホーツクで種痘書を入手し、医師の助手となって種痘法を習得する。同年8月4日ジアーナ号副長リコルドに伴われ国後島に上陸、捕虜交換の交渉が行われるが、失敗し、五郎治が使者に立てられる。しかし、五郎治と共に上陸した歓喜丸の水夫1人が逃亡し、かえって交渉は難航する。リコルドは憔悴し歓世丸を襲い、高田屋嘉兵衛を連行するに及ぶ。またこの際五郎治は日本の役人に「五郎治申上荒増拓」を提出している。松前及び江戸で取調べを受けた後、文政元年(1818年)、手代として松前奉行配下となり、その後藩に仕える。
ロシア滞在中から一貫してロシアに悪感情を抱いていたが、その一方で種痘法に注目し、函館、福山を中心に、その技術を実践している。文化7年(1810年)、田中正右偉門の娘イクに施したのが本邦初の種痘術である。この頃北海道では天然痘の大流行が3度起っており、このとき彼が種痘を施したとみられる。しかし五郎治は種痘法を秘術とし、ほとんど伝えなかったために、知る者は少数であった。彼の入手した種痘書は馬場佐十郎によって和訳されている。その後種痘の技術は函館の医師、高木啓蔵、白鳥雄蔵などにより、秋田、さらには京都に伝達され、さらに福井では笠原良策によって実践される。弘化5年(1848年)9月27日、川に足を滑らせ溺死。享年81。
[編集] 関連項目
吉村昭著「北天の星」