中島知久平
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中島 知久平(なかじま ちくへい/ちぐへい、1884年(明治17年)1月1日 - 1949年(昭和24年)10月29日)は日本の実業家、政治家。中島飛行機(のちの富士重工業)の創始者として知られる。
[編集] 生涯
群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)出身。「飛行機報国」の信念から、海軍を慣例をやぶって中途で退役し、兄弟で飛行機製作所(のちの中島飛行機株式会社)を創設した。
アメリカの国力を知るところから、当初は日米戦争には消極的だったが、開戦後は「米軍の大型爆撃機が量産に入れば日本は焼け野原になる」と連戦連勝の日本軍部を批判し、ガダルカナルの争奪戦では日本の敗戦を予想して、敗勢挽回策として米本土爆撃の大型戦略爆撃機の急造(「z飛行機委員会」)を提言するが44年まで無視され、時期に遅れて計画は放棄された。
近衛内閣の組閣3ヶ月後発足した「大政翼賛会」は幕府的、ファッショ的で立憲政治を侵すとして、強力な政党を作ろうとしたが、終戦まで果たせなかった。
1945年(昭和20年)8月17日東久邇宮内閣で軍需相、軍需省廃止で8月20日商工相。同年、町田忠治によびかけ新党の設立を計画するが、GHQによりA級戦犯に指定の情報(指定は12月2日)で中止。
1947年(昭和22年)A級戦犯指定解除。
1949年(昭和24年)10月29日:脳出血のため急死(65歳)。
[編集] 略歴
- 1884年(明治17年)1月1日:農業 中島粂吉・いつの長男に生れる
- 1898年(明治31年)3月:尾島尋常高等小学校卒業
- 1902年(明治35年)10月:専門学校検定試験合格
- 1903年(明治36年)10月:海軍機関学校入学(第15期生)
- 1907年(明治40年)4月25日:海軍機関学校卒業
- 1908年(明治41年)1月16日:機関少尉に任官
- 1909年(明治42年)10月11日:機関中尉に任官
- 1911年(明治44年)10月27日:日本最初の飛行船・イ号飛行船試験飛行(日本で2番目の操縦員)
- 1911年(明治44年)12月:海軍大尉に昇進
- 1912年(明治45年)6月30日:海軍大学校卒業
- 1912年(明治45年)7月3日:アメリカに出張、飛行士免状取得(日本人で3人目)
- 1916年(大正5年):海軍士官としてヨーロッパへ航空事情の視察
- 1917年(大正6年):海軍を退官、群馬県太田に「飛行機研究所」を設立(東大に同名の機関ができて翌年「中島飛行機研究所」に改名)
- 1919年(大正8年):中島飛行機製作所に改称(川西清兵衛から出資を受けるが、後に買取り)陸軍から20機を受注
- 1930年(昭和5年):第17回衆議院議員総選挙に群馬5区から立憲政友会公認で立候補して初当選
- 1931年(昭和6年):中島飛行機製作所の所長の座を弟喜代一に譲り、営利企業の代表を全て返上
- 1937年(昭和12年):鳩山一郎、前田米蔵、島田俊雄とともに政友会の総裁代行委員に就任
- 1938年(昭和13年):鉄道相
- 1939年(昭和14年):政友会の分裂に伴い、政友会革新同盟(革新派、中島派ともいう)総裁就任
- 1941年(昭和16年):中島飛行機の一式戦闘機、陸軍に正式採用
- 1945年(昭和20年):終戦直後、東久邇宮内閣で軍需相、商工相。その後GHQによりA級戦犯に指定される
- 1947年(昭和22年):A級戦犯指定解除
- 1949年(昭和24年)10月29日:脳出血のため急死(65歳)
映画プロデューサー、政治家の中島源太郎(1929年-1992年)は養子。政治家の中島洋次郎(1959年-2001年)は孫。
[編集] 外部リンク
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