中居屋重兵衛
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中居屋重兵衛(なかいや じゅうべえ、文政3年3月(1820年) - 文久元年(1861年))は、江戸時代の豪商・蘭学者。火薬の研究者としても知られる。中居屋は屋号で、本名は黒岩撰之助(くろいわ せんのすけ)。
上野国吾妻郡中居村(現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原)に生まれる。商人として身を立てようと江戸に出て苦労する。天保11年(1840年)、和泉屋善兵衛の元で火薬の研究に没頭し、蘭学者川本幸民とシーボルトに師事する。安政2年(1855年)には火薬の専門書「砲薬新書」を出版するなど、日本の火薬研究をリードした。時は幕末であり、中居屋のもとには多くの武士が火薬知識を求めてやってきたという。
安政6年(1859年)日米修好通商条約締結に伴い、横浜が開港されたことから、幕府に強制的に移転させられる。しかし中居屋はこの機会に外国商人との上州生糸の貿易を半ば独占し(当時上州生糸はもっとも品質のよいことで知られた)、莫大な利益を上げた。横浜本町四丁目に建設した店は銅御殿と呼ばれるほど拡大した。だが、彼は水戸藩のシンパであり、時の大老・井伊直弼とは敵対関係にあった。そして文久元年(1861年)、突如として消息を絶つ。謀殺説もうわさされたが、真相は藪の中である。
また、ハンセン病治療に果たした役割に対して「生き神」と祀られている。
中居屋重兵衛の墓は群馬県の指定文化財となっている。
[編集] 関連項目
- 小説
- 幕末士伝 中居屋炎上-集英社、祖父江一郎著