中国青年党
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中国青年党(ちゅうごくせいねんとう、中國青年黨、注音: ㄓㄨㄥ ㄍㄨㄛˊ ㄑㄧㄥ ㄋㄧㄢˊ ㄉㄤˇ,拼音: Zhōngguó Qīngniándǎng)は1923年12月2日にフランスパリで結成された「少年中国学会」を前身とする中華民国(台湾)の政党。現党主席は簡吉元。
中国青年党の前身である「少年中国学会」はフランスに留学していた曽琦、李璜、左舜生、陳啓天等により1923年12月2日に結成された。「革命政党」を自認し、国家主義の精神に基づき外難を克服し、中華民国の独立と自由を獲得し、福祉国家の建設を理想とした。
青年党は国家主義を主軸に反共主義を採用した。本来は秘密結社であり、結党の前後には共産党との武力抗争を展開していた。1929年、公的に政党活動を開始し、抗日をスローガンに中国国民党との協力関係を構築した。1937年、青年党は重慶国民政府に参加し合法的な政党としての地位を確立し、また中国民主社会党と協力して1947年の憲法制定作業にも参加している。
国共内戦の結果、1949年に台湾に移転した中国青年党は台湾において組織の建て直しを図り、また勢力拡大のために党外の蘇洪月嬌、李万居、郭雨新等を各選挙で擁立、当選させている。しかし党は台湾に移ったものの、主席である曽琦とその後の代理主席李璜が台湾に渡っていないため長期に亘る党内の分裂を引き起こし、1968年に左舜生が台湾に渡るまで混乱が続いた。1968年、左舜生は党内の団結を図るため李璜の帰国を要請し組織の引き締めを行なった。青年党は民社党と共に政党結党が禁じられた戒厳令下の台湾において合法的に組織が認められた野党としての地位を確立していた。1980年代、立法委員の謝学賢が李璜の支持を受けて党内改革を行ない、政党結党が解禁になると青年党の組織改革を実行した。
青年党は自党を「永遠の野党」と位置づけている。しかし台湾移転後は国民党に過度に依拠したことで野党としての機能を喪失し、黄信介により「花瓶政党(かざりものの政党)」と揶揄されるようになった。また内部対立が沈静化せず、政党結成が解禁されると陳翰珍等の一部造反組が離党し新党結成を行なうなどの動きもあり、青年党は泡沫政党化が進行、政治基盤を喪失した。戒厳令解除後、青年党は選挙ごとに候補者を擁立しているが議席を確保できず、国会の全面改選により既存の議席も失い、台湾政治での存在意義は大幅に後退している。