下田菊太郎
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下田 菊太郎(しもだ きくたろう、慶応2年5月2日(1866年6月14日) - 昭和6年(1931年)12月26日)は、日本の建築家。秋田県出身。アメリカの建築事務所での勤務後、横浜に建築事務所を開設した。昭和初期の官庁建築等に広く用いられた帝冠様式を初めて提案したことでも知られる。当時の建築界では異色の存在で、自ら「建築界の黒羊」と称した。
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[編集] 経歴
- 1866年、旧佐竹藩士下田順忠の子として、秋田県角館町(現仙北市)に生まれた。1883年に工部大学校に入学したが、1889年に中退、文部省営繕課に入る。同年アメリカに渡り、ニューヨークのページ・ブラウン事務所に入る。1893年にシカゴ万博の工事総監督のダニエル・バーナムに師事し、鋼骨建築法を学ぶ。同年、アメリカ国籍を取得、アメリカ人と結婚した。1895年にシカゴに建築事務所を設立して独立し、米国免許建築家試験に合格した。短期間だがフランク・ロイド・ライトの下で働いたこともあるという。
- 1898年に帰国し、東京に事務所を開設した後、1901年に横浜市に建築事務所下田築造合資会社を開設した。アメリカで身に着けた語学力で、横浜の外国人社会とも交流し、1909年に上海にも拠点を置くなど、国際派の建築家として活動した。
- 1911年に帝国ホテルの依頼を受け、平等院鳳凰堂の様式を採り入れた設計案を作成したが、後にフランク・ロイド・ライトに設計者が変更された。ライトの設計内容を知った下田は盗作と主張し、帝国ホテルに抗議を行った。
- 1918年に帝国議会の設計競技が行われると、下田は当選案に大きな不満を持ち、洋風建築の上に日本式の瓦屋根を載せる帝冠併合式(後に帝冠様式と呼ばれる)を提案した。1920年・1922年の議会で設計変更の請願が採択されたが、建築界からはほとんど無視された。
[編集] 主な作品
- 香港上海銀行長崎支店(現 旧香港上海銀行長崎支店記念館、1904年、重要文化財)
- 唯一現存する下田菊太郎設計の建築物である。一時解体の危機に瀕したが、市民の保存運動が実り、保存された。
- スタンダード石油横浜支店(1904年、現存しない)
- 神戸トーア・ホテル(1906年、現存しない)
- 上海総会 室内設計(現 東風飯店、1912年)
- 上海総会(Shanghai Club)は、当時の上海社交界の最高の社交場であり、東洋一長い(34m)バーカウンターで有名。下田菊太郎はその室内設計を担当した。
[編集] 著書
- 欧米建築(1889年) 近代デジタルライブラリー
- 思想と建築(1930年)私家版
[編集] 小説
- 文明開化の光と闇 建築家下田菊太郎伝(林青梧、1981)
- 翡翠の城 建築探偵桜井京介の事件簿(篠田真由美、2001)
[編集] 関連項目
- 永瀬狂三 - 一時期、建築事務所に在籍した。
[編集] 参考文献
- 日本の美術 448号「日本人建築家の軌跡」(田中禎彦著、2003年 至文堂発行)
- 日本の近代建築(下)-大正・昭和篇(藤森照信著、1993年、岩波新書)
- 建築人物群像 追悼編/資料編(土崎紀子・沢良子編、1995年、住まいの図書館出版局発行)
- 全調査 東アジア近代の都市と建築(藤森照信・汪坦監修、1996年、筑摩書房発行)