レフ・カラハン
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レフ・ミハイロヴィッチ・カラハン(Лев Михайлович Карахан、Lev Mikhailovich Karakhan、1889年 - 1937年9月20日)は、ロシアの革命家、ソヴィエト連邦(ソ連)の外交官である。アルメニア人。本来の苗字はカラハニアン(Karakhanian)。
[編集] 経歴
1917年、ロシア社会民主労働党に入党。1917年10月、カラハンは革命軍事会議の議員としてロシア革命に参加した。彼はロシア内戦や干渉戦争を経てウラジーミル・レーニン指導のボリシェヴィキ支配が確立していく1918年から1920年にかけて外務人民委員代理(外務次官)を務めた。1917年から1918年にかけては人民委員(外務大臣)のレフ・トロツキー、あるいはアドリフ・ヨッフェとともにドイツ帝国等との間で行われたブレスト・リトフスク和平交渉におけるソビエト代表団に参加し、その書記を務めた。また、1919年7月には第1次カラハン宣言を発表し、中華民国(中国)に対する新たな外交政策を提示した。
カラハンは1921年にポーランド大使、1923年~1926年に中国大使として派遣され、ソ連の外交政策で重要な国との関係強化に当たった。駐中大使期間中の1925年には、日本(大日本帝国)との間で日ソ基本条約を締結した。
ヨシフ・スターリンによる独裁が強化されていく1927年から1934年にかけて、カラハンは再び外務人民委員代理となり、外務人民委員となったマクシム・リトヴィノフの元で働いた。しかし、スターリンによる大粛清時代の開始からは逃れられず、1937年、カラハンは逮捕・処刑された。
[編集] カラハン宣言
外務人民委員代理時代の1919年7月、ソヴィエト政権の対中基本政策として発表された宣言。ロシア革命直後のレーニンによる宣言の趣旨を継承し、ロシア帝国が清朝と結び、中華民国が継承した北京条約などの不平等条約の即時・無条件撤廃を表明した。これはモンゴル問題などでソヴィエト政権と対立する中国の北京政府を揺さぶり、反帝国主義運動を支持する中国民衆にソヴィエト政権や共産主義への支持・共鳴を広げた。その後、カラハン宣言は修正され、ソヴィエト政権にとっても重要な北満鉄道(旧東清鉄道)の利権は保持したが、軍閥打倒を唱える中国国民党指導者の孫文にソ連との関係強化を促し、1924年の第一次国共合作へとつながる下地となった。