ルイ17世
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ルイ17世(Louis XVII, 1785年3月27日 - 1795年6月8日)は、フランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの次男で王太子。父ルイ16世の死後、名目上「フランス国民の王」とされた。洗礼名によりルイ・シャルル(Louis Charles)とも呼ばれる。
[編集] 生涯
出生と同時にノルマンディー公の爵位を受け、兄であるルイ・ジョゼフが死亡したのちは王太子となった。姉は従兄のアングレーム公ルイ・アントワーヌ(後のシャルル10世の長男)の妃となり、フランス最後の王太子妃となるマリー・テレーズ。
第2王子として誕生を喜ばれ、「赤字夫人」とまで呼ばれたマリー・アントワネットも、子どもができると一時落ち着いた生活を送るようになったという。しかし、フランス王国では絶対王政が次第に揺るぎ始めていた時代でもあったため、その人生は不運なものだった。4歳のとき兄が死亡し、わが子を亡くした悲しみからか、母マリー・アントワネットの浪費がより激しくなる。1789年7月14日にフランス革命が勃発し、10月5日にヴェルサイユ行進が起こると、国王一家はパリに移った。身の危険を感じた国王一家は、2年後ヴァレンヌ逃亡事件を起こし、民衆によってタンプル塔に監禁された。このときルイ・シャルルは6歳だった。
タンプル塔に幽閉されると間もなくルイ・シャルルは家族と引き離され、数ヶ月間靴屋のシモン夫妻が面倒を見た。しかし扱いはひどく、虐待されていたとも言われる。1793年8歳の時にルイ16世が処刑、叔父プロヴァンス伯(ルイ16世の弟、のちのルイ18世)ら反革命派によって、ルイ・シャルルはフランスの新国王に指名され、ルイ17世と呼ばれた。しかし、革命まっただ中のパリで監禁された身では戴冠式を行うこともかなわず、もとよりルイ・シャルル本人は国王と呼ばれていることさえ知る由もなかった。サン・キュロットにラ・マルセイエーズを教えられ、そのうち自分の身分も忘れていった。
シモン夫妻の手から離れるとタンプル塔の日も当たらない一室に約2年間捨て置かれた。一日一回食事を持った革命軍の人間が「カペーのガキ」とだけ言葉をかけて生存確認を取り、食事を置いて行く、他には誰とも会話することもなかった。1795年、タンプル塔の一室でルイ・シャルルが病死しているのが見つかった。死因は結核であり、彼の遺体には疥癬と腫瘍が見つかった記録がある。遺体は共同墓地に葬られた。享年わずか10歳であった。
[編集] 死後
しかし、ルイ17世の遺体は明らかに15歳くらいの少年のものであったため、「ルイ17世は逃亡しており、亡くなった少年は別人なのではないか」という説も出された。そして、自分こそが逃亡した王太子だと名乗り出るものが後を絶たなかった。中でもドイツに現れたカール・ヴィルヘルム・ナウンドルフ(Karl Wilhelm Naundorff)という人物は有名だが、DNA鑑定の結果、マリー・アントワネットとは何の関係もなかったとされている。
2000年4月、マリー・アントワネットの遺髪と、ルイ17世と思われる遺体の心臓のDNA鑑定がなされた。しかし遺体の損傷が激しいため、鑑定にはかなりの時間を要することとなった(マリー・アントワネットの兄弟姉妹やいとこ、現在のハプスブルク家の人間とDNA鑑定は行われた)。その結果は「タンプル塔の遺体はルイ17世のものに間違いない」というもので、2004年6月にようやくルイ17世のものと判定され、フランス王家の墓があるパリのサン=ドニ大聖堂に埋葬された。