ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン
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ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン(Louis Auguste de Bourbon, duc du Maine 1670年3月31日 - 1736年5月14日)は、ブルボン朝期フランスの王族。メーヌ公、オゥ公、オマール公
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[編集] 幼少期・青年期
フランス王ルイ14世と、寵姫モンテスパン夫人の長男として生まれた。出生間もなくマントノン侯爵夫人によって養育された。1673年12月に認知され、1674年1月に宮廷にやってきた。同年、スイスの総合大佐に任命されている。ルイ14世お気に入りの息子であるが、宮廷でわがままいっぱいに振るう寵姫モンテスパン侯爵夫人の私生児であることからオルレアン公フィリップ1世妃エリザベートやアンリ・ド・サン=シモンの父であるサン=シモン公爵ルイ・ド・ルーヴロイからは嫌われていた。
幼い頃は信心深く控え目な性格で、多くの家庭教師の元で学んだ。しかし、ルクセンブルク元帥の努力にもかかわらず、軍事科学には無関心であり、兵士としては平凡な力しかなかった。1681年、アンヌ・マリー・ドルレアンによって行われた脅迫の被害者として、オマールの領地とオゥ伯爵位が与えられ、1682年にはラングドック知事となり、1686年にはオマール公の称号と精霊の勲位(L'Ordre du Saint-Esprit)の地位に処された。1688年には将軍及び大尉に任命されている。
父王は姪のエリザベート・シャルロット・ドルレアンをルイ・オーギュストに嫁がせたいと考えていたがオルレアン公夫人に反対され、1692年に大コンデの息子コンデ公アンリ3世の娘、アンヌ・ルイーズと結婚し、7児をもうけた。その後ルイ・オーギュストは父王の保護の下で大きな権力を維持した。ヴァンドーム公ルイ・ジョゼフとアンギアン令嬢を結びつけた。
[編集] 権力の強化
1714年7月23日、庶子でありながら正式なフランス王位継承者とされた。この時にはルイ・オーギュストの弟ルイ・アレクサンドル・ド・ブルボンも正式な王位継承者とされている。この頃、グラン・ドーファン、ブルゴーニュ公爵、ベリー公爵とルイ14世の王位継承者が3人続けて亡くなっていることと、幼いアンジュー公(後のルイ15世)にはフランス王位を継がせるのは難しく、オルレアン公フィリップ2世もスペイン王家の血を引くことからアンジュー公かオルレアン公をスペイン王座につかせようと父王は考え、フランス王位には自身の直系である彼の嫡子を王位継承者にすることによって内戦を防ぐことを望み、このような措置がなされた。
しかし、正式なフランスの王子であるコンデ公やオルレアン公は、ルイ14世の庶子が共に王座の間に入るのが不満であった。ルイ・オーギュストの敵であるサン=シモン公爵は翌日に挨拶にやってきている。そしてルイ・オーギュストは父王に共同摂政政治のオルレアン公爵を下ろす内容の遺書を書くよう迫った。 8月26日に父王はルイ・オーギュストを大統領及び地方検事総長にするようにした。父王はその際、自分の後ろ盾あってのルイ・オーギュストであることを諭すようなことを述べている。
1715年8月、ルイ14世の体調が著しく悪化し、8月22日にベルサイユ庭園で行われるフランス騎兵隊のパレードの指揮をメーヌ公であるルイ・オーギュストに代行させるようを命じたが、結局この行事はオルレアン公の軍隊が指揮を取り行われた。1715年9月1日にルイ14世が死去。父王の遺言はオルレアン公とメーヌ公で若いルイ15世の摂政政治をすることだった。9月2日には議会で摂政政治を宣言しなければならなかった。しかし、オルレアン公はルイ・オーギュストが私生児であることを盾に、この特権を取り消した。そして摂政政治の会議にブルボン公爵を招くことにしたが、ブルボン公はルイ・オーギュストの命令に従わなかった。この会議でルイ14世の身内はブルボン公に多くの摂政政治権を与えた。1718年8月26日にサン=シモン公爵はルイ・オーギュストは父王の血を引く正式な王位継承者ではなく、単なるルイ14世の私生児であるとし、ルイ・オーギュストは摂政から追い出される形となった。
[編集] 陰謀
ルイ・オーギュストと妻アンヌ・ルイーズはルイ15世の摂政の地位を追われたことに腹を立て、数ヵ月後には摂政政治の権利をスペイン国王フェリペ5世の取り巻きたちに譲渡する陰謀を企んだのだ。しかしこの計画は未然に発覚し、12月に、ルイ・オーギュスト夫妻は捕らえられDoullensの要塞に幽閉された。1720年にディジョンに追放され、永遠にフランス王座につくことはなかった。その後は今までの資産で隠居生活を余儀なくされ、1736年5月21日にシール(オードセーヌ)の領地で死亡。
[編集] 子女
- 女児 (ドンブ令嬢 1695年11月17日 - 1698年9月28日)
- ルイ・コンスタンチン(ドンブ公爵 1697年 - 1699年8月24日)
- 女児 (オマール嬢 1700年3月4日 - 1755年10月1日)
- ルイ・オーギュスト・2世 (ドンブ公 1701年10月15日 - 1775年7月13日)
- ルイ・シャルル (オゥ伯爵 1701年10月15日 - 1775年7月13日)
- オマール公 (1704年3月31日 - 1708年9月)
- ルイーズ・フランセーズ(メーヌ令嬢 1707年12月4日 - 没年不明)
[編集] 関連項目
- ルイ・アレクサンドル・ド・ブルボン (ルイ・オーギュストの末弟、同じく王位継承権を持った)
- フィリップ2世 (オルレアン公) (政治的天敵、ルイ・オーギュストの従兄弟にあたる)