マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ
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マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ(Françoise d'Aubigné, marquise de Maintenon, 1635年11月27日 - 1719年4月15日)は、フランス王ルイ14世の寵姫。作家ポール・スカロン未亡人。
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[編集] 生涯
[編集] 生い立ち、スカロンとの出会い
フランソワーズは1635年にニオール監獄で生まれた。父方の祖父アグリッパ・ドービニェは詩人だったが、父コンスタンスは前妻を刺殺した罪人で、他にも様々な罪状があって投獄されていたが、賄賂を使って後妻であるフランソワーズの母と獄中で密会していた。両親はほとんどフランソワーズを顧みなかったため、主に彼女は小貴族の叔母の館で過した。やがて両親も死去し、フランソワーズは修道院に引き取られたが、その後に叔母に引き取られ、パリへ向かった。パリでフランソワーズはサロンに出入りするようになり、そこで知り合ったのが作家のポール・スカロンだった。この頃、ルイ14世の公妾マリー・マンチーニともスカロンのサロンで知り合い、友人になっている。
スカロンはフランソワーズを見初め、結婚を申し込んだ。スカロンは風采が上がらない42歳の男だったが、当代随一の人気作家であった。一時は困窮生活を余儀なくされ、貧乏に疲れていたフランソワーズは、喜んでスカロンと結婚した。スカロンの文学サロンには、当時高名だったダルブレ元帥、スウェーデン王妃など著名人が集い、活気に満ちていた。フランソワーズは、信仰心が厚く教養豊かで道徳的な女性になった。
[編集] モンテスパン侯爵夫人の許で
1660年に夫スカロンが死去し、フランソワーズは未亡人になった。生活のため仕事を探していた彼女は、1667年に王が催した舞踏会に、ニノン・ド・ランクロに貸してもらった衣装で出席させてもらう事になった。これがきっかけになり、1669年にフランソワーズは、王とモンテスパン侯爵夫人の子供の養育係の仕事を紹介された。大の子供好きだが、自分の子供のいなかったフランソワーズにとっては適職だった。実母だが子供に無関心なモンテスパン侯爵夫人よりもよほど深い愛情を、フランソワーズは子供達に注いだ。
しかし、フランソワーズの女主人となったモンテスパン侯爵夫人は、辛辣で尊大で付き合いづらい女性だった。また、それまで堅実で素朴な生活をしてきた彼女は、馴れない宮廷生活に悩む事もあった。そんなフランソワーズをいつも助けたのは、ルイーズ・ド・ラヴァリエールだった。ルイーズは王の寵愛を失って久しく、モンテスパン侯爵夫人からは召使のように扱われ、辛い日々を送っていた。しかし、ルイ14世のモンテスパン侯爵夫人に対する寵愛も、しだいに薄れていった。国王は、自分の子供達に深い母性愛を注ぐフランソワーズに、安らぎと愛情を感じるようになっていった。子供達の実母モンテスパン侯爵夫人は、子供は生みっぱなしで、自分の子の事を全てフランソワーズに任せっきりにした。長男のメーヌ公爵が高熱を出し、フランソワーズが懸命に看病していた時、モンテスパン侯爵夫人は賭博に熱中していた。
[編集] マントノン侯爵夫人
ルイ14世は、1674年にこれまでのフランソワーズの働きぶりに報いて、マントノンの領地を与え、フランソワーズはマントノン侯爵夫人となった。これには王のフランソワーズへの愛と感謝の思いが込められていた。しかし、どうやら王がフランソワーズに関心を抱いているらしいと察したモンテスパン侯爵夫人は、フランソワーズが領地を与えられた事に不快感を示した。
この年、長い間思い悩んでいたルイーズは、ついにカルメル会修道院に入る事を決心した。これを知ったモンテスパン侯爵夫人は、ルイーズが修道院に、しかも戒律の厳しい事で有名なカルメル会修道院に入るとなると、ルイーズに周囲の人々の同情が集まり、しかも自分が彼女を追い落とした事が明らかになってしまい、日頃から自分に反感を抱いている宮廷人達に、格好の攻撃材料を与える事になると考えた。何としてもルイーズの修道院入りを止めなければと彼女は思った。そこで、思慮深く控えめで人々の定評があるスカロン夫人フランソワーズなら、出しゃばった印象も与えず、またルイーズと仲も良く、説得するのに適任だと思った。
フランソワーズはモンテスパン侯爵夫人の命令を受け、ルイーズの許へ向かった。フランソワーズは、ルイーズと同様に自分の事も召使のように扱う高慢な女主人に対して批判的で、むしろルイーズに好感と同情を感じていた。ルイーズのカルメル会修道院行きを止めに来たのも、主人のためと言うより、戒律が厳しいこの修道院に入るという彼女の身を案じたためだった。ルイーズは、既にカルメル会修道院に入る事が許可された事をフランソワーズに伝えた。フランソワーズは様々に説得を試みたが、ルイーズの決心は固かった。そのうちフランソワーズも、このまま戻ればモンテスパン侯爵夫人に激しく責められるのはわかっていたものの、静かな中にも強い決意を見せているルイーズの様子から、説得をあきらめた。その年のうちに、ルイーズはカルメル会修道院に入った。
[編集] 王の助言者
1679年には、黒ミサ事件が起こった。ルイ14世は、この事件にモンテスパン侯爵夫人も関与している事を知り、完全に彼女から心が離れてしまった。モンテスパン侯爵夫人の部屋は、王の寝室から遠く離れた場所に移された。フランソワーズとモンテスパン侯爵夫人の地位は逆転した。1683年に王妃マリー・テレーズが死去した後、ルイ14世とフランソワーズは秘密結婚をした。1702年にスペイン継承戦争が起こるが、苦境にも持ち前の忍耐力を発揮して王を支えたフランソワーズの事を、ルイ14世は「確固不動の人」と呼んで称賛した。
それからのフランソワーズは、王から内政・外交について助言を求められるようになり、政府の閣僚や軍の司令官の任命などについて発言するようになっていった。それまでは決して表に出ず、王に対して秘書的なサポートをしていたのであるが、次第により公的な役目を果たす事になった。1713年に締結されたユトレヒト条約でも、フランソワーズは少なからず貢献している。ルイ14世はフランソワーズの影響を受けて、それまでの放蕩や浪費がおさまり、フランソワーズと同じように質素な落ち着いた暮らしぶりになった。ただ、その分ヴェルサイユ宮殿はそれまでの華やかさを失う事となった。
1715年にルイ14世は死去した。最後に言った言葉は「私はずっとあなたを愛し続けている。この世の心残りはあなたの事だけだ」だったという。
フランソワーズは1719年に死去した。
[編集] 映像化
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