リュシル・デュプレシ
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リュシル・デュプレシ (Lucile Duplessis 1770年 - 1794年4月13日) は、フランス革命期におけるジャーナリスト、カミーユ・デムーランの妻である。夫をよく助けた“内助の功”の典型的な女性であり、「やさしのリュシル」と称された。リュシル・デムーラン、デムーラン夫人とも呼ばれる。
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[編集] 生涯
[編集] 資産家の娘
1770年、母、アネット・デュプレシと大蔵省官僚の父、クロード・デュプレシの間に生まれる。夢見がちで、しばしば病気がちだった少女リュシルは、メアリ・スチュアートの悲劇に強く魅了された。若いころにメアリの話に多く触れた彼女であるが、後には彼女も、メアリの様に若くして死んでしまうのである。
美しい女性に成長した彼女には、父の用意した莫大な持参金があり、美貌と資産に魅かれた求婚者は絶えることがなかった。しかし彼女は、そんな育ちの良い求婚者たちではなく、ある日リュクサンブール公園で出会った、貧乏で貧相な年上の青年カミーユ・デムーランと恋に落ちてしまう。しかし当然のことながら、あまりにも不釣合いな相手に父親は猛反対し、2人の交際は認められなかった。しかし、デムーランは家庭教師としてデュプレシ家に出入りすることになり、リュシルとの距離もそう遠くなったわけではなかった。
[編集] デムーランとの結婚
やがて2人は、1790年12月29日にサン=シュルピス教会(en:Église Saint-Sulpice, Paris)で結婚式を挙げ、ここに7年越しの恋を成就させた。1789年7月、ネッケルが罷免された際、パレ・ロワイヤル広場で民衆の蜂起を訴えたデムーランは、以後革命期のジャーナリストとして名を上げ、リュシルの父親から、ようやく交際を認められていたのである。結婚式には、夫デムーランの友人、ロベスピエールやブリッソーなども招かれた(この2人は、それぞれ後のジャコバン派・ジロンド派指導者である)。
1792年7月6日には、結婚後初めての子供であるオーラスも誕生した。名付け親はロベスピエールであり、彼とデムーラン一家との親密な交際は、サン=ジュストの勧めによって夫カミーユが逮捕されるまで続いた。また、リュシルの実の妹であるアデルは、一時ロベスピエールに仕えていたこともあった。
夫や、その友人である革命家達と付き合いを重ねていくうち、リュシル自身もジャコバン派の思想を深く理解し、信奉するようになった。また夫デムーランが憎んだ反革命派・過激派などを同じように深く憎み、家庭内ではこれ以上ないほどの内助の功を発揮して、革命家デムーランを影でよく支えた。
[編集] 逮捕と処刑
しかし、ジャコバン派内部での権力争いが激化すると、ダントンと親しく、ジャコバン右派でもダントンに次ぐ地位を得ていた夫デムーランの立場もきわどいものになってきた。かつては家族ぐるみの付き合いであったロベスピエールも今や政敵となり、彼とその側近達の進める恐怖政治に寛容主義を求めたデムーランは、1794年春に逮捕され、4月5日には処刑されてしまう。
激しい絶望感に襲われたリュシルであったが、その深い悲しみに浸る暇もなく、今度は彼女自身に反革命容疑がかかってしまう。夫を自由にするために、彼女が刑務所での暴動を企てていたとして、夫の処刑から2週間を経ずして逮捕されてしまった。温厚な彼女にはまったくありえない話であったが、当時はプレリアール22日法の下、反革命の証言だけで逮捕に踏み切れたためである。牢獄では、ジャコバン左派の指導者、ジャック・ルネ・エベールの妻であるフランソワ・エベールと一緒になり、彼女を根気強く慰めたという(フランソワ自身は、リュシルの様に夫の死に落胆していたわけでもなく、死を迎える自分の運命を嘆いただけであったが)。
やがてリュシルも、1794年4月13日にギロチンに送られることが決定した。しかし彼女は、「もうじき夫のカミーユに会えるのだから、私は幸せです」と嬉々として断頭台に登っていった。その姿は、恐怖におびえながら死んでいった夫よりも堂々とした死に様であったという。
[編集] 関連項目
- フランス革命群像
- シャルロット・コルデー (同じく、その美貌で革命期のパリを騒がせた女性)