ラヌッチョ1世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラヌッチョ・ファルネーゼ(Ranuccio Farnese, 1569年5月28日 - 1622年3月5日)は、第4代パルマ公及びピアチェンツァ公。アレッサンドロ・ファルネーゼとマリーア・デル・ポルトガッロの子としてパルマで生まれた。
ラヌッチョが11歳の時、ポルトガル王エンリケ1世が後継者を指名しないまま亡くなり、ポルトガル継承問題が起こった。ラヌッチョの母マリーアは、マヌエル1世の六男であるギマリャンエス公ドゥアルテの娘であるため、ラヌッチョ自身には継承権があった。父アレッサンドロはスペイン王フェリペ2世の臣下であることを考え、この諍いには息子を名乗り出させなかった。母の妹ブラガンサ公爵夫人カタリナは非常に野心的でこの継承争いに名乗りを上げたが、継承には失敗した。
ラヌッチョ1世の治下、公国はコロルノ、サラ・バガンツァ、モンテキアルゴロを併合した。彼は首都パルマの文化革新を進め、4500席を有するファルネーゼ劇場(第二次世界大戦中の爆撃で焼失)を建設させた。他にパルマ大学の後援、首都を囲む城壁の最後の拡張をおこなった。ファルネーゼ家の住まいであるピロッタ宮殿は、1620年に完成している(現在のピロッタは図書館・美術館を有するパルマの重要な文化センターとなっている)。
ラヌッチョは冷酷な圧制者として知られ、自分に敵対していると疑った100人以上のパルマ市民を公開処刑に処したことが知られている。彼の死後、息子オドアルドが摂政オドアルド枢機卿(ラヌッチョの弟)の名のもとで公位を継承した。
|
|
|