ヨハネス2世コムネノス
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ヨハネス2世コムネノス(ギリシア語:Ιωάννης Β' Κομνηνός (Iōannēs II Komnēnos)、1087年9月13日 - 1143年4月8日)は、東ローマ帝国コムネノス王朝の第2代皇帝(在位:1118年 - 1143年)。同王朝初代皇帝アレクシオス1世コムネノスの子。中世ギリシャ語読みでは「ヨアニス2世コムニノス」。「カロヨハネス」と讃えられた。
[編集] 生涯
1118年、既に共同皇帝となっていたヨハネスは、父の死により皇帝ヨハネス2世コムネノスとして即位した。しかし、即位後に姉のアンナ・コムネナが、夫を帝位につけようとする簒奪未遂事件が起こった。これに対しヨハネスは、姉を殺さないという寛大な処置を取ったため、民衆から尊敬され、“カロヨハネス”(Καλοϊωάννης (Kaloiōannēs)、「心美しきヨハネス」)と呼ばれた。なお、アンナは修道院入りして父アレクシオス1世の伝記を執筆。世界史上でも稀な女性歴史家となった。
賢明で思慮深く誠実で、かつ勇敢であったヨハネスは、帝国の再興のために倹約に努めて無駄な支出を抑制し、父の政策を継いで軍事力を再建し、対外政策に力を注いだ。ヴェネツィア共和国との戦いでは敗れてしまったが、北方においては帝国への侵入・掠奪を繰り返していたペチェネグ人を壊滅させ、東方においては、ルーム・セルジューク朝に占領されていた小アジア領を回復した。1137年にはアンティオキア公国を屈服させ、帝国を再び東地中海の強国として蘇らせることに成功した。
同時代および後世の人間からも「コムネノス家のローマ皇帝の中で最も善良」(ニケタス・コニアテスの『年代記』)といわれていたが、さらに近年でも、歴代の東ローマ皇帝の中でも屈指の名君であると評価する研究者もいる。
晩年のヨハネス2世には、長男のアレクシオスと次男のアンドロニコスに相次いで先立たれるという不幸もあった。1143年、遠征先のシリアでの狩猟の途中誤って毒矢を自分に刺してしまい、臨終の床で暗愚な三男を廃して四男のマヌエル1世コムネノスを皇位継承者と定め、56歳で亡くなった。
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