ユーグ・ド・リオンヌ
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ユーグ・ド・リオンヌ(Hugues de Lionne、1611年10月11日 - 1671年9月1日)は、フランス王国の外交官、政治家、貴族。国王ルイ14世の下で外務担当国務卿(外務大臣)を務めた。
ドーフィネ地方 Dauphinéグルノーブル出身。早くから外交官としての教育を受けた。ジュール・マザランによって外交官としての能力を評価され、ウェストファリア条約締結のため、ミュンスターで開催された会議にフランス全権団の書記官として派遣された。1642年ローマ教皇庁に赴任する。
1646年ルイ14世の母后、アンヌ・ドートリッシュの秘書となり、1653年には宮廷内に高い官職に就いた。1654年教皇アレクサンデル7世の選出にあたりフランス全権大使として派遣された。
フランスの外政家としては、伝統的な反ハプスブルク家政策を採用しライン川河畔諸国による同盟を構想、オーストリアとスペイン領ネーデルラントの離反を謀った。その一方で、1659年ピレネー条約をスペインとの間に締結することに成功し、ルイ14世とスペイン王女マリア・テレサ(結婚後、マリー・テレーズ)との結婚に漕ぎ着けた。
マザランの死後、外交政策の責任者となり、1663年4月3日から1671年9月1日まで外務担当国務卿を務めた。1667年ブレダ条約、1668年エクス・ラ・シャペル条約の締結が最大の功績と評価される。
1671年パリで死去。生前に回想録を残した。また、リオンヌの死後、彼の友人であったポンポンヌが外相職を引き継いだ。
ユーグ・ド・リオンヌは、享楽的な男であった。しかし、ひとたび政治的な出来事が怒れば彼の自然な怠惰は、絶え間のないエネルギーとなって、第一級の外政家として政治的手腕を振るう原動力となった。
[編集] 参考
- Ulysse Chevalier, Lettres inédites de Hugues de Lionne précédées d'une notice historique sur la famille de Lionne (Valence, 1879)
- J. Valfrey, La diplomatie francaise au XVIII siècle: Hugues de Lionne, ses ambassadeurs (2 vols., Paris, 1877188 1)
- Rochas, Biogr. du Dauphin (Paris, 1860), tome ii. p. 87.
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